February 28, 2005

スパム

 コメントスパムの次にはトラックバックスパム。多くの人に読まれているとは言い難いこのサイトだから放っておいてもよいのかもしれない。しかしあまり気分が良くないので、トラックバックも受け付けないようにした。
 そうだとするとウェブログとはいったい何だろう、という問いが生じてくる。というのもこの形式が出現したとき多くの人に歓迎されたのは、コメントとトラックバックという二つの機能があったからだと思われるからである。
 少し考えてみる必要があるようだ。

投稿者 Vapor Trail : 12:31 AM

January 01, 2005

新年

 あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 新年に際して何か新しいことをしようと思うのは、よくあることである。ただその新しいことが今までのものすべてを切り捨てるようなものであったならば、あまりうまくはいかないだろう。既に私は何者かであるのだから、それを生かすのがよいのだ。アランが言ったように、行動の指針の第一章は「続けること」なのだから。

投稿者 Vapor Trail : 10:49 AM

July 24, 2004

持参する本

 山本義隆『磁力と重力の発見1──古代・中世』(みすず書房、2003年)を読了。
 このタイミングで読み終わるのはちょっと具合が悪い。というのも明日から海外に出かけるのに続きの2冊を持っていくべきか悩ましいからである。読み終わりそうな量だが、しかしそれだけの時間と体力があるかどうか。
 そもそもこういう時には日本語のいい文章を読みたい。購入したままになっていた保坂和志の『カンバセイション・ピース』(新潮社、2003年)を持っていこう。そう決めていた。その他に資料やら何やらがある。ちょっと重くないか。
 荷物を詰めたら幸い少なかったので、全部持っていくことにする。

投稿者 Vapor Trail : 09:27 PM

July 23, 2004

リンク

 スパムにやられた。そのためしばらくコメントを受け付けないようにする。
 このサイトは人気サイトではないから、スパムの「意義」はそれほどないようにも思う。それとも単なる愉快犯ということなのだろうか。
 インターネットはおそらくは誕生のときから情報を繋げることが目的であったのだろう。スパムもその延長上にあると言えなくはないかもしれない。とするならば、なくなることはありそうもない。
 リンクは人間が意図して行っている。もしサーバーやホストコンピュータなどが人間の手を介さずに、リンクを行ったとしたらどうなるのだろうか。その時にはコンピュータはあまりありがたいものではなくなりそうである。

投稿者 Vapor Trail : 10:37 PM

May 10, 2004

郵便配達人

 アランを久しぶりに読む。1908年12月17日のプロポで、題は'Le facteur des postes'。
 アランは郵便配達人に「書かれざる法の番人よ」と呼びかける。大げさな言い方だろうか。そうではない。法を規定することができるのは、書かれざる法を守る人々がいるからこそなのだ。書かれざる法とは、法を法として尊重すべしという態度決定のことである。
 このことを忘れる立法家はしばしば法の何たるかを忘れ、個々の法を忘れる。

投稿者 Vapor Trail : 11:45 PM

April 13, 2004

思考停止に陥らないために

 よく使われている言葉はしばしば思考停止を引き起こす。よく耳にするがゆえに、分かったつもりになってしまっているからだ。現代社会におけるマスコミの巨大化と通信手段の発達は、その傾向を助長する。だが思考停止に陥らないためには、その趨勢に抵抗する必要がある。だからこそ問わなければならない、「それはいったいどのような意味なのか」と。
 もちろん、興奮によって生じる痙攣が行動であると思っている人々の間で、一旦立ち止まり、思考へと促すそのような問いを発するのは、勇気がいる。王様が裸であることが指摘されなかったのはそのためだ。
 問うことを止めなかったソクラテスは、勇敢な人であった。

投稿者 Vapor Trail : 10:27 PM

March 30, 2004

誤作動?

 六本木ヒルズの自動回転扉に男の子が挟まれ死亡したという痛ましい事件に関する報道で違和感を覚えるものがある。「誤作動を少なくするために、センサーの死角を広くした」という表現の中にある「誤作動」という言葉である。
 コンピュータを使っている人は誰でも、操作ミスによってそれまで書いてきた文章を一瞬にして失う、という経験をしたことがあるだろう。コピー先とコピー元とを間違えるといったファイル操作ミスはより被害が大きい。こういったとき、過ちは人間にあるのであって、コンピュータにはない。コンピュータは使用者の命令に「忠実に」従ったまでであって、使用者の意図に反して文章を消すわけではないのだ。コンピュータには過ちはない。
 自動回転扉のセンサーも同じだろう。もしセンサーに「誤作動」が可能ならば、男の子はセンサーの死角に入っていたにもかかわらず、センサーが誤作動しために助かった、ということになるはずである。ではなぜ「誤作動」などという言葉が使われるのか。
 コンピュータの場合を考えれば明白である。保存するつもりだったのに、削除してしまった。コンピュータは馬鹿だ。これは意図とは別のことが生じてしまった、ということである。だからセンサーの「誤作動」とは、制作者や使用者の意図とは別に、あるいは逆に作動した、つまりは自動回転扉が止まった、ということを意味している。彼らの意図とは、できる限り多くの人間を効率的にビル内に入れたり、ビルから出したりする、ということである。
 センサーは「危険」を感知し、扉は止まった。だがその時、おそらくは健康な大人だったのであろう、センサーを作動させた人は挟まれずに済んだ。今回の事故(ないし事件)以前に、「誤作動した」と言われている事態はおそらくこうだった。
 センサーに誤りはない。過ちが使用者や制作者にあるのである。

投稿者 Vapor Trail : 10:27 PM

March 28, 2004

成長

 自分が成長したことが分かる、これは大きな喜びである。子どもでもこの喜びを知っている。いや、子どもこそこの喜びを知っているというべきだ。
 大人たちはむしろその喜びに与る機会は少ない。「できなかったことができるようになる」というこの成長を味わうには、自分にはできないことがあるという自覚が必要だろう。だが、その自覚を持つことは難しい。その自覚を持てるよう望むことはさらに難しい。できて当たり前と思いたいから。
 それを避けるには、次々と新しいものに挑戦するか、あるいは自分のしてきたことをより深めるか、どちらかであろう。

投稿者 Vapor Trail : 09:59 PM

February 26, 2004

2万通の手紙

 19世紀の英国を代表する知性、J.H.ニューマンは生涯に手紙を2万通以上書いたという。メールはおろか、電話もなかった時代であるから現代よりも多いのは当然であるとしても、しかし驚くべき数である。
 生涯のメールの数が2万通を超える人はいくらでもいるだろう(一日10通のメールを打てば、2000日──あしかけ6年──で2万だ)。しかしそのほとんどは集めても価値が出るとは思えない、たとえそれが「知識人」であっても。

投稿者 Vapor Trail : 11:54 PM

February 21, 2004

諸行無常

 諸行無常。すべては過ぎ去る。これはもちろんある種の哀感を帯びた言葉ではある。だがだからこそ現にある憂うつな状態から救われることもある。過去も未来も存在しない。存在するのは現在だけだ。これはストア派の賢者の教えである。彼らはそう考えることによって自己の心を保つことが出来た。
 それは凡人には難しい。そうかもしれない。しかしどんな人にも、今まさにしなければならないことがあるはずだ。それを行え。そうすれば、気分が少しは晴れる。正確に言えば、自分のことばかり思い悩まなくて済む。つまり癒される。
 時間が有り余っている人に必要なのは、それゆえ、強靱な精神力である。しかしそのようなものを持ち合わせる者はどれほどいるのだろうか。

投稿者 Vapor Trail : 11:06 PM

February 18, 2004

健康な知性

 健康はそれ自体として望ましい。もちろん、健康であることから、例えば、仕事が出来るとか明るい気分であるとか、様々な益が手に入るであろう。しかし健康はそういった益のために求められるのではない。健康を回復するために服用する薬とは明らかに違う。薬それ自体を貴ぶものはいないが、健康それ自体は明らかに貴い。
 さて、もし知性にも健康ということが比喩的に語られるとしたらどうだろう。健康的な知性、あるいは健全な精神、は明らかにそれ自体として望ましい。ではそれはどのようにして人が獲得することの出来るものなのだろうか。先天的なものと後天的なものとの混合によって得られるのだろうか、ちょうど健康が、生まれつきの健やかさと、早寝早起きや暴飲暴食をしないなどの生き方との双方に由来するように。
 かつて知性の健康、つまり教養を得るためには古典を学ぶことが必須と考えられていた。しかし今は、古典なるものは役に立たないとの理由で殆ど無視されている。ネイティブの人とちょっとしたおしゃべりが出来る方が、シェイクスピアを原典で読んだことがあるというよりも価値が高いと思われている。道具としての知性こそ求められているのだ。
 それが何をもたらすか、社会はまだよくわかっていないと言うべきなのか、それとももうわかっていると言うべきなのか。こんなことをJ. H. ニューマンを読んで考えた。

投稿者 Vapor Trail : 11:37 PM

February 17, 2004

アランの二つの言葉

 アランの言葉を二つ掲げよう。

何もしない人は何も愛さない。
嫌なことのない職業とは、自分がたずさわっていない職業だけである。

 上の引用は1908年のプロポ、下の引用は1935年のプロポである。
 この二つの言葉は矛盾している? とんでもない。通底するものが見て取れる、いやむしろ同じことを違った言い方で述べているのだ。愛と気分とは違うのだから。
 様々な困難に打ち勝つこと、それこそ行動するということであり、その積み重ねにより人は自分自身への愛と対象への愛とを自覚する。しかし困難を避けることばかり夢想していては、今現に在るものを見ず、別のものを彼方に眺めるだけで満足してしまう。
 そして困難とは対象のうちに在るように見えて、実は自分自身のうちにある、自分自身であるともそうでないとも言えそうなものから由来する。汝自身を知れ。

投稿者 Vapor Trail : 11:51 PM

February 11, 2004

意志的行為?

 行動を規定するもの、あるいは導くもの。それは実はとてもつまらないものでありうる。「ふらふらと」「つい」「何となく」、これらの言葉を口にしかなった者があろうか。
 ラスコーリニコフは殺人の妄想から救われたと思った直後に、金貸しの婆さんのところに翌日はリザ・ヴェーダがいないことを往来で耳にした。その後は人形、操り人形のように犯行に及ぶ。これは果たして人間の行為であろうか。
 犯行後のラスコーリニコフは人形ではない。犯行現場からいかにして立ち去るべきか、凶器をどうするか、奪った金は? こういった問題をラスコーリニコフはテキパキとは言えないし、いわんや適切にとは言えないにしても、「人間的に」行う。彼は自分が何をしているか意識しており、意識していることを意識している。意識の意識とは決して病的なことではない。よくあることだ。たとえ「理性的」ではないにしても。
 なぜラスコーリニコフは操り人形となってしまったのか。悪魔、と昔の人々なら考えたであろう。だが、そういうものを否定するのがならいとなっている現代では、どのように語りうるのだろうか。

投稿者 Vapor Trail : 09:11 PM

February 05, 2004

アランのプロポ「友情」

 「君の木を君の穴蔵のなかで腐らせてはいけない」とアランはこのプロポで語る。「穴蔵」とは閉ざした心であり、「木」とは喜びを内蔵している心である。火に木をくべると、太陽からいただいた、それまで内に隠していた熱が木から出てくるように、内に隠された喜びは笑うことによって外に現れ、本当の喜びとなる。幸福だから笑うのではなくて、笑うから幸福なのだ、とさえアランは言う。
 これはおそらくデカルトの考えによるものだろうが、より注目すべきはこのメカニズムが「友情」と題されているプロポのなかで語られていることである。もちろん、人が一人でいるのはよくない。「満足した人でも、もし一人でいれば、自分が満足していることをすぐに忘れてしまう」。だからこその友であろう。互いに内に隠し持っている喜びを外へと引き出すための。だが一人でいることを余儀なくされている場合もありうる。そのようなとき、笑うことを試みよとアランは言う。そうすれば喜びが湧いてくる。とすると、私の木の中の熱を引き出した火は私自身だということになる。私が私の友なのだ。
 友に対して友であることと、自分に対して友であること。そのどちらかがかけても真の喜びはないのだろう。

投稿者 Vapor Trail : 11:27 PM

January 26, 2004

「食堂のにおい」

 アランのプロポ「食堂のにおい」を読む。
 学校のであれ、修道院のであれ、食堂には共通のにおいがあるとアランは言う。それを知らない者は善良な市民であろう。しかしそれを知っている者は、「秩序や規則といったものを好ま」ない。彼らがいつも「法や規則に対し、礼儀に対し、道徳に対し・・・いきり立っているのが見られる」。
 考慮すべきはアランの分類の是非ではない。分類の基準となっている「食堂のにおい」である。食堂のにおいを知っている者が「法や規則に反抗」するのは、それが法や規則の象徴だからだろう。食堂では秩序が最も重んじられる。座るべき位置が決まっている。目上の人が来るまでは食べてはいけない。そういったところであろうか。
 嗅覚という感覚の情動への近さ、あるいは密接さをもこのプロポは明らかにしている。食堂のにおいを知っている者は規則や礼儀に対していきり立つ。この怒りが場合によっては正義へと引っ張っていくことも大いにある、「綱の端を引っ張る疑い深い犬のように」。

投稿者 Vapor Trail : 10:12 PM

January 23, 2004

ハビトゥス

 学問と単なる情報、あるいは碩学とディレッタントとの違いはどこにあるのか。アリストテレスの言葉を使えば、アイティア(原因)を知っているかどうかがその両者を分ける。ある事柄が別の事柄の原因であるとは、それらが結びついており、いわば立体的に構造化されていることを意味するだろう。とするならば、ある情報に反応することは心の表層において起こっていることであって、そこには深みがない。学的認識をヘクシスやハビトゥスとして規定した古代・中世の人々の叡知を思え。
 数多くの情報に接し、それに素早く反応すること。そのような訓練をすることは害悪ではあるまいか。学的認識というハビトゥスの獲得のためには習慣というハビトゥスによるしかない、つまり時間が必要だから。

投稿者 Vapor Trail : 11:30 PM

January 20, 2004

En lisant Alain

 今年になってから、アランのプロポを少しずつ読んでいる。理想は一日に一つなのだが、なかなか時間がとれない。それでも、疲れて帰って来ても、なるべくプレイヤード版の『プロポI』を開くようにしている。
 アランの翻訳はずいぶん読んだ。それも何度も読んだものがたくさんある。だから改めてフランス語で読む必要があるのか。それほどフランス語が得意なわけでもないのに。そう言われてしまうかもしれない。
 しかしアランの言葉を引きつつ、こう答えよう、「困難こそ喜びなのだ」と。
千ページを軽く超えるプレイヤード版のアラン著作集は全4巻。はたしてアランの"En lisant Dicekns" はいつ読めるのだろう?

投稿者 Vapor Trail : 10:43 PM

January 14, 2004

建築

 冬の冷気に包まれた建物はその直線をくっきりと示す。それは自然に対して、自己を主張する精神の証だ。よく知られたように、自然のうちには曲線しかないのだから。だがだからこそ、精神は自然と調和しうる。美しい建物が周囲の環境と調和するように。そのためには精神は精神でなければならない。原理的なものからよく考えられて建てられた建物こそ美しいのは、そのゆえである。
 私は建築に詳しくはなく、いわんや建築家でもない。しかし、ある建築家の書を読むことによって、このような思いを抱いた。おそらくこれは様々に変奏しうる旋律でありうるだろう、もし自らよく考えようとするならば。

投稿者 Vapor Trail : 11:45 PM

January 13, 2004

引用の現すもの

 書店を覗いたら、トルストイの翻訳で、彼が作成した様々な書物からの引用集の文庫本があった。書名などは忘れたが、パラパラと見た感じでは、毎日、相当数の引用が書きつけられていた。引用だけからなる書にどれほどの価値があるのだろうか。トルストイだからこそ、文庫本として翻訳・出版される、ということなのだろう。そう考える人もいるかもしれない。しかし、引用には引用した人の感性や思想、なかんずく力量が如実に現れる。引用を自分の小説に多用する大江健三郎が、小林秀雄の『本居宣長』の引用文が見事だと言っていたことからもそのことがわかる。
 私の見るところ、最高の引用はトマス・アクィナスの手になる『黄金の鎖』と呼ばれる書である。これはトマスが古の教父たちの著作から自由自在に引用し、それらを適切に組み合わせ、編集し、一冊の福音書の註解書としたものである。この書に現れるトマスの神学者としての力量は計り知れない。博学に基づく引用とそれらを美しく織り上げる能力、どちらかが欠けても、このような書が成立しないのは明らかである。さらに明らかなのは、そのどちらかを身につけることすら凡人には難しいということである。
 『黄金の鎖』は、書を読み、古今東西の優れた思想に学びながら、自らの思索を重ねようとする者にとって、北極星のようなものだ。到達することはできない。しかし目指すことはできる。そして何よりもそのような者にとっての道標となっている。

投稿者 Vapor Trail : 11:21 PM

January 11, 2004

自己を定義する

 森有正のエッセイ「ルオーについて」を読む。
 このエッセイを導いているのは、アランの「自己に対する自己の対立」、あるいは「自己を定義する」という言葉だ。森はこのことをわれわれ日本人が学ぶべき、フランス文明の質のよさを現すものとして、書いている。森が言うように、「自己を定義する」というのは、不断の労働を通じて自己のうちに秩序を作ることであり、自己に対する闘いに他ならない。
 だが、と人は言うかもしれない。森は書いていないが、アランの言葉に「詩人は詩を作り、怠け者は眠る」という言葉がある。とすると、自己を定義するためには不断の労働や自己との闘いを必要としないということになりはしないか。あるいはアランは矛盾したことを言っているのか。
 おそらくそうではない。怠け者は何もしないことを選択することによって、自己を怠け者として作り上げてしまったのだ。ただしこの場合の秩序とは無関係である。それゆえこれは「自己が定義される」と言うべきかもしれない。何によってか。外的条件や、欲望、怠惰、などによってである。それらに抵抗しないで流されることによってである。
 定義されてしまった人は、自由を失った人である。対処することしかできないのだから。うまく対処したとき、その人は自分の力を感じるだろう。だがそれは自由という力ではない。なぜなら、自由とは自己を定義する人のみが持つものだから。

cf. 二宮正之編『森有正エッセー集成3』(ちくま学芸文庫、1999年)

投稿者 Vapor Trail : 11:10 PM

December 27, 2003

感情の波と思考

 プラトンの対話篇には戯曲形式のものとある人の報告による叙述形式のものとがある。そして後者には主人公のソクラテス本人が報告するものがいくつかある。主著とも言うべき『国家』、ソフィストたちを描いた『プロタゴラス』、そしてプラトンの親戚が対話相手をつとめる『カルミデス』などがそうだ。
 ソクラテス自身が報告するこれらの対話篇では、ソクラテスの心の動きが僅かではあるが、語られる。トラシュマコスに怒鳴られて驚いたことを述べるソクラテス(『国家』)、プロタゴラスの反論に時間稼ぎをする必要を感じたと語るソクラテス、そして美しきカルミデスの着衣の奥に秘められた肌をかいま見て我を忘れたと打ち明けるソクラテス。
 感情とは動きであり、われわれの思考は常にその波に晒されている。場合によっては翻弄され、正しい判断が不可能になる。だがソクラテスは踏みとどまり、感情の波に溺れることがないよう、自らを立て直す。感情の波に溺れていながら、どうしてもう一つの波、もっともらしいが真実ではない、それゆえにこそ巻き込まれやすい、議論というもう一つの波を泳ぎ切っていくことができようか。それを泳ぎ切ることこそ、われわれの生がいかなるものとなるかを決めているのに。
 心の動きを率直に述べ、その後の議論を語っていくソクラテスの姿を通して、プラトンが語りたかったことは、以上のようなことではあるまいか。ソクラテスの姿が凛としているのはそのゆえであろう。

 このサイトのタイトルNesteonとはギリシア語で「泳がなければならない」という意味である。

投稿者 Vapor Trail : 10:32 PM

December 24, 2003

クリスマス

 イエスが生まれたのは、聖書の記述によればもっと暖かい季節ではなかったか。そういう説があるらしい。いずれにしろ、この時期にクリスマスを制定したのはずっと後のことだ。
 だがこの場合、歴史的事実などはつまらないと言うべきだろう。太陽が弱り切っているこの時期に再び春が来ることを信じて、こんなにも闇が長いこの時期に再び光が輝くことを希望して、ひっそりと誕生する生命を愛する。そう決意した人々がイエスの誕生をこの時期に定めた。
 その智恵と意志とにならって、平和を祈ろう。

投稿者 Vapor Trail : 10:52 PM

December 10, 2003

平和と協調

 平和と協調は同じか。トマス・アクィナスはこのような問いを立て、それらは異なるとしている。すなわち Summa Theologiae, 2-2, q. 29, a. 1 によれば、協調とは複数の主体の欲求が一致することであるのに対して、平和とは

欲求する一人の人にある様々な欲求の一致
を意味するからである。つまり人は他者と協調するだけではなくて、自己自身と協調しなければ平和とは言えない、ということになる。
 この平和の捉え方は、あるいは奇異に思われるだろうか。平和とは現在では戦争のない状態というのが最大公約数的な理解であろうから。しかしながら、トマスの言う平和はより内的である。他者とうまく協調することができたとしても、自己自身と協調することができなければ、平和な人ではない。そして平和な人でなければ平和を作り出すことのできないのは言うまでもなかろう。
 以上の考え方を国に当てはめたらどうなるのだろうか。この国は、国際協調だけは、最近、やたらに口にするのだが。

投稿者 Vapor Trail : 10:16 PM

November 24, 2003

子ども

 橋の上から下を通りすぎる電車を子どもが見ていた。幼稚園児だろうか。ほほ笑ましい光景、と思いながら通り過ぎようとすると、子どもが石を握りしめていることに気づく。「ダメだよ、そんなことをしちゃ」と思わず叱ると、子どもは驚いた様子であった。そこに母親の声がして、子どもは去っていった。橋を渡る直前に携帯でケタケタ笑いながら話す女性がいたが、どうやらそれが母親だったらしい。
 子どもに悪気があるとは思えない。おそらくは石が落ちたらどうなるだろう、落ちた石が電車に当たったらどうなるだろう、見てみたい、というような気持ちだったのではないか。犯罪だとか、悪いことだとかは認識していないだろう。しかし結果は重大なものになりうる。電車にとって、あるいはその乗客にとって、でもある。だが、より重大なのは、子どもにとってだ。「橋の上から通り過ぎる電車に向けて石を落とす」行為は大人の視点からは明らかに犯罪だから、「とんでもない幼稚園児だ」と判定されるだろう。
 大人がもっと気をつけなければいけない。

投稿者 Vapor Trail : 10:40 PM

October 29, 2003

教養

 ドイツ語では教養は形成というような意味もある語でBildungといい、ある種の生真面目さを感じさせるのに対して、ギリシア語ではpaideiaで、これはpais(子ども)とかpaizo(遊ぶ)という言葉と同根である。子どもにとっては遊ぶことが学ぶことでもある。他方、大人にとっては遊びとは仕事から解放されたときの気晴らしという程度の意味しかないのではないか。しかしはたして遊びとは、つまりは教養とはそれだけのものなのだろうか。
 教養についての議論が数多くなされているようだ。それはそれで結構なことなのだが、ギリシア語の教養という語に感じられる遊びの要素がないようにも思われる。それだけ、教養の必要性が真剣に語られているということなのだろうか。いったい誰が遊びの必要性を主張できるだろうか、この経済不況の、絶叫することが説得することだと思っている人間が首相をしているこの社会で。
 だが、結論として、子どもの世界から学ぶものがありそうだ、ということには断じてならない。それは今の日本の子どもの世界とは大人の世界の鏡でしかないからである。

投稿者 Vapor Trail : 10:46 PM

October 06, 2003

誤字

 この間、テレビを見ていたら、「急がしい」という文字が現れ、呆れた。近ごろはパソコンでテロップを作成しているのだろうが、考えられない間違いである。誤変換に決まっている。そう思って、自分のパソコンでisogashiiと打ってみたら、「忙しい」の他には、平仮名と片仮名の変換候補しか現れなかった。ということはテレビの誤りは、相当古いソフトによるのか。まさか「忙しい」と正しく変換されたのに、「急がしい」と改悪したのではあるまい。
 手書きではありえないような間違いが氾濫するのは、ローマ字変換のせいなのだろうか。それともローマ字ではなくて変換が問題なのだろうか。いずれにしろ、コンピュータで日本語を「打つ」ことから来る現象であることは否めない。いったいなぜだろう。

 思考のスピードとほぼ同じ早さで画面に平仮名が現れる時、その画面を見ている、つまりはキーを打っている本人の頭の中には正しい漢字が浮かんでおり、変換キーを押してしまえば、思考は直ちに次に進み、指がそれに続く。ところが、常に正しく漢字変換が行われるわけではもちろんなく、それゆえ頭のなかで浮かんでいる正しい漢字とは別の誤った漢字が画面に現れても、それに気づかない。こうして誤字が手書きより多く発生すると思われる。
 しかしこれだけでは誤字の多さを説明できない。自分の指が打ちだした文章を読み返せば、誤字に気づくことは可能だからだ。にもかかわらず、誤字が多いということは読み返すときにも問題が多いということになろう。おそらく、たとえ黙読であってもわれわれは「声」を感じながら、読み返している。それゆえ、たとえ誤字があっても、その誤字は「音」としては正しいために、読み返しているときには、つまりは「音」により注意が向いている段階では、「字」の誤りが気づかれにくいのではないだろうか。
 パソコンを用いて文章を書くときに誤字が多いのは日本語の特性による、そう思われるのである。

投稿者 Vapor Trail : 10:59 PM

October 05, 2003

驚き

 人が驚くのは今まで知らなかったことに対してである。これは自明だ。そしてこの驚きの感情(それは確かに感情だ)は、どうやら快を伴っているらしい。新しいものをひたすら追い求めることがあるのがその証拠だ。
 しかしこれは精神を堕落させる、とデカルトは言う。精神が驚くべきものは他にある。新しいがささいな事柄に驚くのは、驚くべきものへの驚きを摩滅させてしまう、というのだ。
 もしデカルトが今を生きていたならば、批判はより鋭さを増すであろう。新しいものを求めることによって動いているのが現代だから。しかし新しいと喧伝される事柄はそれほど新しくはないのではないか。類型的なものが多いのではないか。
 デカルトの『情念論』を読み返す必要がありそうである。

投稿者 Vapor Trail : 09:59 PM

October 01, 2003

他人の判定

 あいつらは悪人に決まっている。幸い、私はその誰とも話したことがないが。そう述べるアニュトスにソクラテスは言う。どうやらあなたは占いが出来るらしい。
 よく知らない人について人は軽々しく、しかし断固として判定する。地位や職業、そういったものによって。話したことがなくとも、いや会ったことすらなくとも。なぜこういうことが出来るのか。考えてみれば不思議である。しかし私たちはマスコミに取り上げられる人々をよく知っている気になっている。だから判定できるのかもしれない。
 こういった判定は、あるいはそれほど害がないかもしれない。しかしよく知る人に対して、つまりは私たちの近しい人たちに対してなされる判定はどうだろう。しばしばそれも表層的なものかもしれない。それを打破するためには会話が必要だ。そうも考えられる。
 しかしながら、人が人を知るには対話が必要であるのが真実であるとしても、それは必要条件に過ぎない。ソクラテスのように、人の魂を見分けることが出来るほどの対話術を持っている人のみが、かろうじて人を知ることができるのではないか。

 cf. プラトン『メノン』

投稿者 Vapor Trail : 11:05 PM

September 26, 2003

不満

 不満な人間はなぜ自分自身を傷つけるようなことをしてしまうのか。他人を、ではない。いや正確には他人を傷つけることが確かにあるが、あるいは大いにあるが、それも実は自分を破壊しようとする欲求が原因となっているように思われる。どうせ死ぬなら、他のやつも殺してやれ。そう一瞬でも思った人は多いのではないか。そこまでいかなくとも、自己に対する不当な評価(他人によるものであれ、自分自身によるものであれ)によって悪をなしてしまう、ということはよくあるだろう。
 ソクラテスは何も持たなかった。知恵も名誉も財産も持たなかった。彼は不満だったろうか。そうかもしれない。彼は知恵を持たなかったのだから。しかしその不満は彼が幸福であることにいささかも影響を及ぼさなかった。

投稿者 Vapor Trail : 12:27 AM

September 21, 2003

比喩

 "Ein gutes Gleichnis erfrischt den Verstand."
 「よい比喩は頭の血の巡りをよくする」というウィトゲンシュタインのこの言葉は鋭い。イエスもプラトンも比喩に巧みであった。彼らがいまだに新鮮であるのはその卓抜な比喩能力のおかげでもあろう。
 時代も場所も異なる21世紀の日本で、政治家たちはしばしば喩えを用いて語る。だがそれを聞く(あるいは目にする)私たちの精神を活発にはしない。なぜか。もちろん、よい比喩ではないから。では比喩のよさとは何によるのか。
 比喩とは何か。これについては修辞学において様々な議論がなされているであろう。だがここでは簡単に次のように言っておこう。比喩とはある事柄(A)を伝えるために、別の事柄(B)を用いて語ることだ、と。このときBはAよりも具体的で、しばしば強いイメージ喚起力をもつのが普通である。よい比喩とはしたがって、まずはAとBとの関係によって決まる。Bが適切な仕方でAを伝えるならば、それはよい比喩の必要条件を満たす。
 しかしながら、たとえその関係が適切なものであったとしても、語り手が伝えようとする事柄Aそのものが価値の低いものであったならば、決してわれわれの精神が目覚めることはない。むしろその時、比喩はわれわれを沈滞させる。なぜならばそのような比喩を語りうる機転の利く人が、しょせんはつまらぬことをしか欲していないことを露にするからである。

投稿者 Vapor Trail : 10:42 PM

September 12, 2003

仕事

 仕事という言葉がいつの間にかプロ野球の解説などで用いられるようになった。この場合、仕事とは「よい結果」を意味しているようである。
 しかしそれとは違う仕事もある。それは成果を生み出すためになされている仕事である。野球で言えば、練習である。試合よりも練習の占める割合は大きいはずだ。少なく見積もって9割には達するだろう。達しないならば、一流ではないと断言できそうである。
 こちらの仕事は人様には見えない。見せる必要もない。だが、見えるもののみが存在しているものだと考える人々は多い。そしてその傾向をマスコミが助長する。それゆえそういった人々は結果にこだわる。結果しか見えないのだから。ところが本当の一流とはプロセスをも楽しむ人であろう。いや、プロセスをこそ、と言うべきだ。そして良い結果、つまり成果をも出す。
 結果がすべて、だからこそ結果にはこだわっていられない。これこそ仕事を持つ人のすべてが目指すべきものだ。

投稿者 Vapor Trail : 11:18 AM

September 11, 2003

憎しみ

 恐れるべきものは怒りではなくて憎しみである。怒りは突発的であるが、憎しみは持続するから。なぜ憎しみは持続するのか。おそらくは憎しみの方がより言語化可能だからではないか。怒りは個別的であるが、憎しみは普遍的である。個別的な怒りにでさえ、正当かどうかはともかく、理由がある。ならば憎しみはより理由をもって語られるであろう、それが正当であるかどうかはともかくとして。とすると、人間以外の動物には怒りはありえても憎しみはないということになるのだろうか。
 憎まれた場合、人はどのように反応するのか。まず、おびえ、恐れる。そしてその恐怖は怒りに変わり、さらに憎しみに変わるであろう。こうして生じた憎しみの連鎖を断ち切ることは極めて困難である。当事者双方に理由があるからである。
 人間は人間のみが持つ情念によって自らを滅ぼしてしまうのか。そうではないことを自らに証しすること、これがおそらくは今世紀の課題なのだ。

投稿者 Vapor Trail : 10:00 PM

September 10, 2003

続けること、始めること

 新しくこのサイトを始めるにあたって、アランによる行動の要諦を記しておきたい。曰く、一、続けること、二、始めること。
 逆ではない。続けることが先なのだ。人が何かを新しく始めるときでさえ、それはそれまでのその人の在りようによって特徴づけられているからである。人はすでに何かである。それを無視しては新たなものは生まれないのだ。
 しかしもちろん、新たなものを始めるとは出発である。出発するには身軽でなければならない。何かを後に置いていかなければならない。置いていくものとは過ぎ去っていくべきものである。ではそれが豊かな実りであったとしたら? だがそれこそ出発を遅らせる原因となりうる。そして出発を遅らせるとは出発しないことだ。
 今在るものを続けること。そしてそこから何か新しいものが胎動するとき、即座に出発する勇気を持つこと。これができる人は後悔しないだろう。

cf. アラン『プロポ2』みすず書房、2003年

投稿者 Vapor Trail : 11:31 AM