March 03, 2004

俳優のノート

 山崎努『俳優のノート──凄烈な役作りの記録』(文春文庫、2003年)を読了。これは俳優の山崎努が「リア王」公演の準備、稽古、公演を通じての日記である。
 俳優がいかにして役を作っていくのか、事柄自体としても興味深いが、しかし山崎の思索が骨太であることがこの書の大きな魅力になっていると思う。骨太とは根本から考えているがゆえに説得的で、確信したことを断固として主張するがゆえに力強い、という意味である。少し引用しよう。

戯曲全体を隅々まで理解すること。一行たりとも分からない個所があってはならない。全体が分からなければ、自分の役がどのような役割を課せられているかも分からないはずなのだ。自分の役以外の役を深く知らなくてはならない。全体を理解せず、自分の役だけを考えるということは、木を見て森を見ないということだ。俳優は木を凝視すればよい、自己中心的な方がよいのだ、それを演出家が使いこなしていくのだから、という意見もありそうだが、自分はそうは思わない。それでは俳優は木偶扱いされていることになるではないか。俳優は馬鹿ではいけない。俳優は演出家の道具になってはならない。今、演出家主導の芝居が持てはやされているようだが、これはとても悲しく淋しいことだ。我々俳優は森全体を見、そして木を見なければならない。自立しなければならない。(pp. 111-112.)

 「従来の所謂新劇の演技」を批判する一節。
何故あんな空疎な演技になってしまったのか。それは、演技を作り上げる材料はあくまで日常にある、ということを忘れてしまったからだと思う。・・・大切なものは自分の日常にある。・・・目の前にいる人、今起きている事に興味を持つことだ。面白いことがたくさんあるじゃないか。日常に背を向けてはいけない。(pp. 374-375.)

 ここで「演技」の替わりに「思索」を入れても意味が通るだろう。

投稿者 Vapor Trail : March 3, 2004 10:47 PM