徳のある人の振る舞いは、他所の人々に感嘆されるというよりは、寧ろその日常生活が親しい人々に感嘆されるものなのである。似たようなことはプラトンも語っている。人々が羨む僭主の日常生活をよく知る人こそ、僭主の幸不幸を知ることができると。 人は他人の評判を気にし、社会的評価を求める。それらは強い酒なのだろうか。人を酔わせ、判断力を失わせる。しかし立派に見えるからといって本当に立派であるとは限らない。立派であると判断できるのは、そういった強い酒を飲んでも酔わない人なのだろう。そして酔わないことそのものは立派さの徴である。
『プルターク英雄伝(三)』(河野与一訳)岩波文庫、1953年、p. 15.
『吾輩は猫である』(ちくま文庫判全集第1巻、p. 427)より引用。朝食時、子供たちが騒いでいるのに主人の苦沙弥が何も言わずに、ただひたすら自分の食事を済ませているのを、「働きのない事だ」と言ったあとにこうある。
しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の目玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥れる事よりほかに何も知らないようだ。・・・これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。実践的生よりも観想的生の方が望ましいというヨーロッパに伝統的な考え方を漱石は知っていたのだろうか。『猫』に描かれる苦沙弥、迷亭や寒月らの会話から伺われる彼の知識からすると知っていたとしても不思議ではない。
象形。・・・才は聖化され、神聖なものとしてあるというのがもとの意味であり、才は在(ある)のもとの字である。・・・のち聖器としての小さな鉞の頭部の形(士)を加えて在となり、子を加えて存(ある、いきる)となる。存在とは、神聖なものとしてあるということである。
象形。踵をあげて爪先立ちしている人を横から見た形。・・・人が爪先立ちして遠くを見ている姿を示し、「つまだつ、のぞむ」の意味となる。人がこの姿勢をするときは、他に対して何かを企てるときであるから、企は「くわだてる」という意味となる。国語のくわだてるの古語は「くはたつ」である。古語でかかとを「くは」というから、「くはたつ」とはかかとをあげて爪先で立つことであり、何かをたくらみ、計画するという意味に使われる。企と「くわだてる」は、企立(踵をあげて立つこと)から企画(計画を立てること)へという意味の展開のしかたが同じである。
正しいことには抵抗が多く,言いがかりをつけてからまれることがあるもので、木の枝などの「からむ」ことをいい、格闘(組み合って争うこと)のように用いる。なるほど。が他方で、right(正しい)ことがright(権利)なのは多くの人の合意が得られるからこそであろう。
佐藤正英『聖徳太子の仏法』(講談社現代新書、2004年)を読了。
以下はこの書からの引用である。
世俗世界における現生は、かけがえのない時間・空間から成っている。しかし、世俗世界における現生は、現生だけで終結しているのではない。前生から現生へ、現生から後生へと繋がっている時間のなかに在り、いくつもの他界に接している空間のうちに在る世界である。現存は、基底において幽在時間・幽在空間に支えられている。現存の意味は、世俗世界における現生では時と処によってめまぐるしく変転して定まらない。世俗世界における現生で捉えられるかぎりでの事物や事象の在りようは、時と処によって変転するところの、虚にして仮なる在りようであって、真にして実なる在りようではない。世俗世界における現生は、事物や事象の実なる在りようを捉え、みずから体現することを希求して、思惟を重ね、修行を積む時間・空間である。他者との隔絶を埋めるべく、煩悩の汚泥にまみれ、辛苦する世界なのである。
森有正「アリアンヌへの手紙」から引用。
過去に支えられた可能性、それこそが本物の可能性なのだとわたくしは思う。なぜならその場合には、前に飛び出すための跳躍台になりうるものが一杯に詰まっているからである。全くの中立状態にある可能性は、無限に適応できるように見えるけれども、実際には真の適応性が欠けているのであり、何の役にも立たない。過去に戻るということはこの自由な適応性を組織することなのである。
cf. 二宮正之編『森有正エッセー集成4』(ちくま学芸文庫、1999年)、p. 435。
森有正「アリアンヌへの手紙」から引用。
実際に行動する場合に賢明な態度は事物の直接の様相に惑わされないことである。直接というのはわたくしたちの感能と感情とに直接につながっているという意味だ。叡智とは何事においてもある程度の《時の間隔》をおくことであり、それだけが、私たちを捉えている問題の重要性、つまり重要であるか重要でないかの度合を《客観的に》判断することを可能にするのである。
cf. 二宮正之編『森有正エッセー集成4』(ちくま学芸文庫、1999年)、p. 308。
森有正「文化の根というものについて」より引用。
新しいものはすべて古いものの中から発芽し、それを包みきれなくなった古いものが脱落して行くという形で発展してゆく・・・そういう古いものが使用に耐えなくなるまで維持されて、新しいものを妨げるとともに深く養っている・・・これはフランス文明について述べた言葉である。森のこの観察がただしいかどうかは分からない。しかし、「新しもの好き」が大手を振っている社会ではこういうことがなかなか見られないのは事実であろう。
cf. 二宮正之編『森有正エッセー集成4』ちくま学芸文庫、1999年、p. 179.
『幸福論』などで有名なカール・ヒルティのすすめる読書法は次の三つからなる。
1:たくさん読むこと
2:つまらないものを読まないこと
3:正しく読むこと
このうち2は、新聞、雑誌、つまらない小説の類を読まない、3は具体的には、原本を原語で繰り返し読むこと、である。
この読書法をやり通すことは極めて困難である。しかし、その価値はある。そう思う人にヒルティは言う、「とにかく始めよ」と。
一週間ぶりだが、アランのプロポ「三つの対神徳」からの引用。
人間嫌いは、希望のみか信頼までも殺してしまう。人間たちが無知で、癒しがたく怠惰だとすれば、私は何を試みることができようか。その男が愚鈍で軽薄であると信じ込んでしまえば、彼を教育することすらわたしにできようか。だから、人間にかんする一種の希望と一種の信頼が存在するのだ。そして、その真の名は愛徳である。
cf. アラン(山崎庸一郎訳)『プロポI』(みすず書房、2000年)、p. 219.
またイエスの言葉は、マタイ22章39節。
昨日に引き続いて、アランのプロポ「三つの対神徳」からの引用。
信念は希望がなければ先にはすすめない。登山家が遠くからエヴェレストの最初の斜面をながめたとき、すべては障害だった。通路を発見したのは、すすむことによってである。これゆえに、まえもって遠くから、これこれのものが意欲にとって障害になるだろうと決めてかかるのは、意欲することにはならない。道はふさがれていると思いながら試みるのは、試みることにはならない。だから、発明家や改革者は、まず山の周囲をまわり、さまざまな峡谷を通ってできるかぎり遠くまで前進し、最後には通路を発見するのである。なぜなら、われわれにとって味方でも敵でもない、無関心な多種多様な事物のなかには、かならず足がかりになる好機や場所が見つかるからだ。そして、語の普通の意味において、ことをまえにしてのこの徳は、まさに希望なのである。
cf. アラン(山崎庸一郎訳)『プロポI』(みすず書房、2000年)、p.p. 218-219.
アランのプロポ「三つの対神徳」からの引用。
自分自身を信頼しないなら、ことを企てるとは明らかに狂気の沙汰である。自分に意欲する力があると信じることなく、自分自身に固く誓うことなく意欲するのは、意欲することではない。
めいめいがまずもって自分の意欲を疑うなら、ただそれだけで、戦争に戦争がつづくことになろう。だから、第一の徳は信念である。
cf. アラン(山崎庸一郎訳)『プロポI』(みすず書房、2000年)、p. 218.
J.H.ニューマン『大学の理念』からの引用。
"Good" indeed means one thing, and "useful" means another; but I lay it down as a principle, which will save us a great deal of anxiety, that, though the useful is not always good, the good is always useful. Good is not only good, but reproductive of good; this is one of its attributes; nothing is excellent, beautiful, perfect, desirable for its own sake, but it overflows, and spreads the likeness of itself all around it. Good is prolific; it is not only good to the eye, but to the taste; it not only attracts us, but it communicates itself; it excites first our admiration and love, then our desire and our gratitude, and that, in proportion to its intenseness and fulness in particular instances. A great good will impart great good.
ニューマンの『大学の理念』第七講話の第4節からの引用。なお、ここに述べられている善が善を生み出すという観念は新プラトン主義的なものである。
アラン「実物教育」からの引用。
ソクラテスは、周囲から探し出して、マント持ちをしていた奴隷の子どもを幾何学の弟子に選んだ。俊秀のアルキビアデスはなにも口を挿めなかったが、おそらく一日中、口には出せないつぎのような想いを反芻したに違いない。たぶん教僕のほうがしっかりしているに違いない。教僕なら、平等性の秘密は主人になるような者たちにしか教えないと心に誓っているはずだ、と。
cf. アラン(山崎庸一郎訳)『プロポ2』(みすず書房、2003年)、p. 246.
惰性に身を委ねる・・・この世では凡てが惰性で動いている・・・従って、凡てが意志に対立する。そうとすれば、我々が生きる為に果たすべき本質的な部分は闘いにある。それは絶えず更新していくことであり、瞬間毎に創造していくことである。二宮正之篇『森有正エッセー集3』ちくま学芸文庫、1999年、p. 398、からの引用。彼の1965年3月18日の日記の一部である。 これはアランの言う、自分の自分に対する闘いと同じことだと考えてよさそうである。とするならば、人は自己のうちに惰性で動かされる部分を持っているということになりはしないか。惰性に流されることは非難の対象となり、その非難は流された人全体に向けられる。それゆえ、流される自己は確かに自己である。しかしそれははたしてどのような意味で自己なのだろうか。
二カ月前に書いたものを見ると、もういつのまにかそれを超えてしまっている自分が意識される。それはどういうことなのか、説明するのはむつかしいし、恐らくそれは出来ないことであろう。しかしその変化と成長とは、一つの否定することの出来ない事実としてそこにあり、私は二カ月前に書いたものをすでに批判出来るようになっている自分を一つの重みを感ずるように感ずるのである。そして私は、一つのことが判り、理解することが出来るのは、決して知的面だけの問題ではなく、もっと経験全体の変容、その成熟に外ならず、それを確定するものとして知的判断が表れてくるのだということを知るのである。そしてそれ以外には、判るということは金輪際ありえない、と感ずるのである。私はそれを「変貌」と名付けたいと思う。二宮正之編『森有正エッセー集4』(ちくま学芸文庫、1999年)に所収の「変貌」からの引用(pp. 23-24)。
アランのプロポ「歌われた叫び」を読む。そこからの引用。
諸制度の起源を探さなければならないのは、われわれを取り囲むものうちに、本性それ自体のうちにであって、古文書の中にではない。
『森有正エッセー集3』(ちくま学芸文庫、1999年)を読了。今日は疲れているので、引用を二つだけ。どちらも「日記」からである。
パリという、根柢から人の意志に基づいてできている大都会の真っ只中にあって、僕の同国人はすっかり方向を失い、為すところないようでさえあった。勿論、それは人間としてという意味である。彼らは、この都市の住民を相手に行動し、競争し、交渉し、何ものかを組織する、それだけの力がない。この町の四つ角に打ち棄てられて、自分らの甘ったれた夢に閉じこもって生き続けるだけである。それは、彼らが辛酸きわまりない現実との関係において自らを測ることを知らず、逆に、何事につけても、主観的なお目出度い自己評価のうちにだらしなく逃避しているからに他ならない(p. 371)。真の教養は、理解と表現という二つの行為を含むものであるから、逆方向に働き、補いあうこの二行為の結びつきを、常に大切に保持しなければならない。(p. 508)
二つ目の引用の原文には「理解」と「表現」とに傍点あり。
森有正「黄昏のノートルダム」より引用。
自然科学、自然の征服の思想の上に立つ近代機械文明、それを端的に表す近代戦、それは、自然への讃歎から出発したギリシア文明とたしかに異質のものだ。それは旧い文明を吸収消化することなく、それを破壊する。古い遺跡は、その文明の生命の持続を後に来る文明にゆずり渡し、自らは平和に自然に還るけれども、近代文明で破壊された旧い文化は、生命の持続を喪失し、死滅し、その不気味な死骸だけをのこす。
cf. 『森有正エッセー集3』(ちくま学芸文庫、1999年)、p. 268.
大学における研究の特質とは何か。それは・・・教育の問題、すなわち、大学が学生と教師の共同体であるという性質につながる問題である。学生を教えることは、直接的には研究者にとって大きな負担である。・・・しかしまた真の研究者は、学生の素朴な質問の中に、単なる未熟さや幼稚さを見るのではなく、自分が没頭している高度な研究、深遠な問題設定に対する、根源的な——すなわち言葉の本来の意味でのラディカルな——問い直しを見いだすのである。・・・真の研究者は、学生から問われるだけでなく常に自ら問い直している人であるに違いない。これは建築家で、大学教授であった方の本からの引用である。 根源から問うことの必要性は、時代が混迷の度を増している現在、ますます高まっているのに、混迷を増しているがゆえに、根源から問うことの有益性がますます意識されなくなっているようだ。それは根源から問うことには時間がかかるからである。だが、速成のものは早く滅びる。それゆえ結果を性急に求めることは、そのための投資や努力を、結局、無駄に終わらせるだけであろう。
cf. 香山壽夫『建築家の仕事とはどういうものか』(王国社、1999年)、pp. 82-3.
森有正「滞日雑感」より引用。
パリで、私は日本、ことに東京が全く変貌したように人からも聞いていた。しかし帰って来て、決してそうではないことを知った。ただ問題は、新憲法の新しい精神があらゆる活動の基礎であるべき、古い言い方を用いれば、国是というべきものになっていない、ということをも同時に感ぜしめられたことであった。
私のいうのは、平和主義とか民主主義とかいうことを一つのイデオロギーとして立てて、これを人々の頭にたたき込むという野蛮なことではない。自分の日々の勤労に営々として従事し、その仕事に喜びと誇りとを感ずるということ自体が平和と民主主義との実体であり、それを脅かす恐れのある一切のことに対して抵抗する心構えが平和を守るということであって、それが政治の上に反映されたものが民主的な政治である。
cf. 二宮正之編『森有正エッセー集成3』(ちくま学芸文庫、1999年)、p. 223。なお、引用文中、太字になっている部分は、原書では傍点(森による強調)。
かつて読んだ本を急に読みたくなり、書棚を探し、ようやくのことで見つけて、読み始める。と、思いもかけず、共感を覚える言葉に出会う。おそらくそのようなことを経験された方もあるだろう。なぜ急に読みたくなるのか。それはわからない。が、勝手に天使の囁きだと思っている。
第二ヴァチカン公会議にただ一人の非聖職者として参加した神学者にして、アルチュセールの師でもあった、ジャン・ギトン。彼の書『心から心へ——21世紀を生きる人々に贈る』(新評論、1994年)の中から引用しよう。
疲れは「自分がやるべきことをやっていないという観念から来る」
ユーモアと愛との距離はあまりありません。ユーモアとは皮肉の衣をまとった愛だからです。
cf. ジャン・ギトン(幸田礼雅訳)『心から心へ——21世紀を生きる人々に贈る』(新評論、1994年)、p. 96, p. 98。訳文はともかく、本文中に埋め込まれている注がよくない。本文と紛らわしいし、ところどころに間違えがある。「?」がつけられている注もある。分からないならば、つける必要はない。
戦争が「好都合な」結果をもたらしうるものであるならばなおさらである。そうした戦争がもたらす結果こそ、場合によっては、戦争がいまだ理にかなった可能性であると万人を納得させる理由となるからだ。ならば一方で、それを否定することが義務であることも変わりはない。上に引いた言葉はウンベルト・エーコの「湾岸戦争」時のものである。引用からも分かるように、エーコは戦争を否定する。戦争は「浪費」であり、「人間の主体的決断をことごとく無に帰するもの」である。 結果よければすべてよし、ではない。
サダム・フセイン元イラク大統領のアメリカ軍による拘束のニュースを聞いた日に。cf. ウンベルト・エーコ(和田忠彦訳)『永遠のファシズム』(岩波書店、1998年)。
アラン『定義集』(岩波文庫、2003年)からの引用。
重大さ。これは笑いの拒否である。・・・重大さは結局、吟味の拒否に帰する。重大さはあらゆる意味における優雅さを拒否する。重大さは他者にも自分にも重苦しい。・・・重大さはけっして決定しない。けっして自由ではないのだ。重大さは過ちにつき従う。・・・重大さは続いて必ず起きることを強調することができるだけだ。・・・貧弱な政治はすべて、重々しい。貧弱な政治はすべて、重々しい。
自衛隊をイラクに派遣する計画を閣議決定した日、それを説明する首相の記者会見を見て。
国々にとって公私いずれの面でも害悪が生じるときの最大の原因であるところのもの、そのものから戦争は発生するのだ。この言葉はプラトンがその著『国家』において述べている戦争の原因である。そしてこの「最大の原因」とは
必要なだけの限度をこえて、財貨を無際限に獲得することに夢中になることだと言われている。 では、戦争を避けるためにわれわれは欲望を制限しなければならないのか。おそらくそうなのだろう。だがプラトンは欲望を制限しなければならないのは、国の為政者に限っていることは知っておいてよいだろう(ただし、個人の生き方としては別である。あくまで国のレベルである)。
cf. 『国家』373e、岩波文庫の藤沢訳より引用。
小説とは、一作ごとにまず書き手自身が成長するためのものだから、そのためにはいま自分のなかにあるものをすべて注ぎ込む必要がある。上の言葉は、保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社、2003年)p. 63からの引用である。この言葉にある「小説」の代わりに、人は自分の仕事を表す語を入れることができるだろう。ニュッサのグレゴリオスのエペクタシスに関連するものが、上の言葉にはある。
アランのプロポ「意欲と行動」より。
人間は欲するまえに行動するということは、子ども時代を見れば自明の理である。人間は世界に投じられるとすぐ、世界のなかを泳ぐ。しかも気づいたときにはつねにそこに投じられているのであり、いくらもがいてもそこから身をもぎ離すことはできない。・・・
ことは実行に移そうではないか。最良の着想といえども計画倒れになり得るからである。計画を操舵することはできない。ところが、ひとはそれができると信じている。まだ後悔していないのに修正を加える。はじめるまえに終わらせようとする。なんども揶揄されてきた管理精神とは、けっして船を進水させることのないきわめて慎重な精神である。きわめて見事な船なのに。
cf. アラン(山崎庸一郎訳)『プロポ2』(みすず書房、2003年)
アラン『定義集』より「平和(PAIX)」の定義の引用。
これはどんな敵も知らない、だれの不幸も喜ばない人間の状態である。平和が想定しているのは、無関心の状態のみならず、すべてのことは人間同士の間で理性と忍耐とによって解決すべきであって、ピークは長続きしないという積極的な信仰である。この信仰は国家同士の間にも同じように言える。
アラン(神谷幹夫訳)『定義集』(岩波文庫、2003年)は、味わうべき書である。