January 19, 2005

読み返す

 書かれた文字は固定している。こちらの問いかけに答えてくれない。これがプラトンの不満だった。だが、プラトンほどの精神ならともかく、私のようなものには何度か読み返すことによっていろいろと発見がある。読んでも気付かないことがある。気付いても忘れてしまうことも多い。こちらの読み方が変わることだってある。だから読み返すことによって「新しくなる」のだろう。
 『夏目漱石全集2』(ちくま文庫、1987年)をおもしろく読んだ。収録作品のほとんどは別の本で読んだことがあるのに、やはりほとんど忘れていた。とはいえ読み方が変わったのかもしれない、と読みながら感じた時もあった。どのように? 文学学者のように読んだわけでもない。作家のように読んだわけでもない。どうもうまく言えないのだが、夢中になっていながら、しかしどこかしら突き放して読んでいたようだ。「体験」が増したから突き放して読めるようになったのだろうか。それならば馬齢を重ねたというだけのことなのだが。

投稿者 Vapor Trail : 10:39 PM

October 26, 2004

『プルターク英雄伝(一)』

 10年以上前に読んだことがあったがほとんど印象に残っていなかった。読み返してみると、きわめて興味深く読めた。小林秀雄と違って別に風邪をひいたから読もうと思ったわけではない。
 この第一巻ではスパルタの王である「リュクールゴス」の部分が面白かった。彼の定めた制度により、スパルタ人の生活は、戦争のときを除いて「合唱を伴う踊りや祭や宴会や狩だの体育だの歓談に関する暇潰しがすべての時間を充たしていた」(p. 136)という。もちろん、これは奴隷がいたから出来たことであっただろう。しかし労働が閑暇のためであるというのはもっと深く考えられてよいだろう。
 全部で12冊ある。最後まで読んだ記憶はない。今回は読み通したいと思う。

投稿者 Vapor Trail : 03:24 PM

August 28, 2004

『磁力と重力の発見』

 山本義隆『磁力と重力の発見1──古代・中世』(みすず書房、2003年)を読了してから、早くも5週間が経ってしまった。
 海外出張の間に、2巻と3巻を読み終わった。朝起きて読み、夜寝る前に読んだ。近代科学成立の前史を描いたこの書には、知らない話が多く、興味深かったからである。
 多くの賞を受賞したこの3巻本の内容の素晴らしさについては、ここで言うまでもないだろう。ただ感想を述べることが許されるならば、筆者の歴史に対する評価のバランス感覚が見事であると言いたい。
 科学を学ぼうとする人の必読文献ではないだろうか。いかに人々の考えがゆっくりとしか変わらないものなのか。いかに多くの人の努力の蓄積の上に今があるのか。そういったことを学ぶことができるのだから。

投稿者 Vapor Trail : 10:38 PM

July 08, 2004

 佐藤正英『聖徳太子の仏法』(講談社現代新書、2004年)を読み始める。 
 かの有名な憲法十七条の第一条「一に曰く、和を以ちて貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ」の「和」は、親族共同体や村落共同体における「和」ではないという指摘に、蒙を開かれる。前者は情念を共有する構成員たちが融合する在りようであるが、後者は絶対知を修めようとする官人共同体における「和』であるという。その共同体の誰もが絶対知を修めていないがゆえに謙虚であり、それでいて絶対知からの言わば距離によって各人が位置づけられるがゆえに上下という秩序がある。この秩序を保つことこそ、第一条の主旨だという。
 このような「和」こそ求められるべきなのではないだろうか。そして一般に理解されている情的紐帯としての「和」は無意味とは言わないまでも、それが通用する範囲を縮小すべきではないだろうか。

投稿者 Vapor Trail : 12:35 AM

June 21, 2004

『ここからはじまる倫理』

 アンソニー・ウエストン『ここからはじまる倫理』(春秋社、2004年)を読了。さまざまな倫理学説の解説というものではなくて、倫理について論ずるときの心構えを諭す書である。安直な自己弁護をするな、権威に頼らず自分で考えよ、創造的であれ、単純な二極化をするな、想像力を駆使せよ。筆者のこれらの主張は、つまるところ、「よく考えよ」ということだ。
 訳者の一人である野矢茂樹が語っているように、ときに楽観的に過ぎると思われる箇所もある。だがそれでも読者は考えさせられるだろう。アランが言うように、「悲観主義は気分、楽観主義は意志」だからだろうか。言うまでもなく、強い意志に抵抗できるものはない。
 ウエストンの主張(いや、態度と言った方がよいか)に賛同するにせよしないにせよ、この書は倫理について学ぶことがどのような意義を持つかを明快に示している。「倫理について学びたまえ、そうすれば人生を豊かにすることができる」。

投稿者 Vapor Trail : 11:12 PM

May 17, 2004

『森有正エッセー集成4』

 数日前、ようやくといった感じで、二宮正之編『森有正エッセー集成4』(ちくま学芸文庫、1999年)を読み終わる。
 この本に収録されている様々な文章のうち、発表された著作と日記との中間に位置する「アリアンヌへの手紙」が、初めて読んだということもあるのだろうが、印象深い。年下の女性への書簡という形式のゆえであろうか、森の他のエッセーよりも分かりやすく、心情を吐露しつつも日記ほど生ではないため、より親しみやすいものとなっている。誰に向けて語るかが文章を書く上での大きな要素であることを示していると言えよう。
 読書法を引用しておく。

何冊かの同じ本を繰り返し読まなくてはならない。紫式部が「史記」の大変な愛読者であったことをあなたは知っているだろうか。デカルト、パスカルはモンテーニュの読者であり、モンテーニュはモンテーニュでプルタルコスを読み込んでいた、という具合である。こうして、数知れぬ真の読者の目に見えない網が形成されるのである。熱気を帯びたこの共同体に加わらなくてはならない。そのことをわたくしに明かしたのはアランである。

投稿者 Vapor Trail : 10:43 PM

March 03, 2004

俳優のノート

 山崎努『俳優のノート──凄烈な役作りの記録』(文春文庫、2003年)を読了。これは俳優の山崎努が「リア王」公演の準備、稽古、公演を通じての日記である。
 俳優がいかにして役を作っていくのか、事柄自体としても興味深いが、しかし山崎の思索が骨太であることがこの書の大きな魅力になっていると思う。骨太とは根本から考えているがゆえに説得的で、確信したことを断固として主張するがゆえに力強い、という意味である。少し引用しよう。

戯曲全体を隅々まで理解すること。一行たりとも分からない個所があってはならない。全体が分からなければ、自分の役がどのような役割を課せられているかも分からないはずなのだ。自分の役以外の役を深く知らなくてはならない。全体を理解せず、自分の役だけを考えるということは、木を見て森を見ないということだ。俳優は木を凝視すればよい、自己中心的な方がよいのだ、それを演出家が使いこなしていくのだから、という意見もありそうだが、自分はそうは思わない。それでは俳優は木偶扱いされていることになるではないか。俳優は馬鹿ではいけない。俳優は演出家の道具になってはならない。今、演出家主導の芝居が持てはやされているようだが、これはとても悲しく淋しいことだ。我々俳優は森全体を見、そして木を見なければならない。自立しなければならない。(pp. 111-112.)

 「従来の所謂新劇の演技」を批判する一節。
何故あんな空疎な演技になってしまったのか。それは、演技を作り上げる材料はあくまで日常にある、ということを忘れてしまったからだと思う。・・・大切なものは自分の日常にある。・・・目の前にいる人、今起きている事に興味を持つことだ。面白いことがたくさんあるじゃないか。日常に背を向けてはいけない。(pp. 374-375.)

 ここで「演技」の替わりに「思索」を入れても意味が通るだろう。

投稿者 Vapor Trail : 10:47 PM

February 25, 2004

古代アテネの民主政

 橋場弦『丘のうえの民主政──古代アテネの実験』(東京大学出版会、1997年)を読了。すでに専門書を上梓している著者が、一般向けに書いた書。それゆえ、叙述は平明で読みやすく、読者の興味がとぎれないようにアテネの民主政の歴史を様々な人物について語り継ぎつつ描くという手法は成功していると言えよう。全6章のうち5章がそのような語りに充てられ、第3章「参加と責任のシステム」のみ原理的な話である。
 「ペリクレスの死後、アテネの民主政は衆愚政となり混迷、ペロポネソス戦争に敗北、そして後にアレクサンドロスにより独立を失う」という歴史の教科書によくある筋書きが必ずしも正しくないことを明らかにしている。民主政のシステムはむしろ前4世紀の方が進化した。責任のシステムが、民主政の二度の転覆といった事態を経て、より整備されたからであるという。
 資格審査をパスすれば誰でも(とはいえ三十歳以上のアテネ市民権を持った男性のみ)公職に就く(役人になる)が、しかし任期中はもちろん、一年の任期を終えた後はいっそう厳格にその責任を問われる。金銭上の不正がなかったかどうか問われ、それ以外の執務についても責任が問われた。より要職にある人物には弾劾裁判にかけられる可能性があった。
 「公務員倫理など信じない」過酷とも映るアテネの民主政は権力を徹底的に分散・細分化し、しかも公職にある者の責任を厳格に問うものであったのだ。

投稿者 Vapor Trail : 10:27 PM

February 13, 2004

神聖ローマ帝国

 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書、2003年)を読む。面白く、短時間で読めた。それは、語り口が巧妙ということもあろうし、高校の時に習った世界史の知識がよみがえり、かつそのころ不思議だったことが氷解したということもあろう。しかし何よりも、千年以上にわたるヨーロッパの歴史(の一断面)を、この不思議な「神聖」「ローマ」「帝国」をめぐる人物列伝の形式で述べたことによると思われる。それが歴史の専門家には余り受けない、ということは、歴史のアマチュア(愛好家)ですらない私のような一読者にとってはどうでもよいことだ。専門家の著者は少しそのあたりを気にしているが。
 皇帝や王、様々な諸侯という土地貴族によって繰り広げられる土地の簒奪がそのまま国家の版図を決めているというのは、いかにres publica(「公共のもの」)という「ローマ」の理念(たとえそれがローマ帝国のものでなかったとしても)からかけ離れているかを示している。政略結婚によって、領土が広がるなどはその最たるものだろう。それを近代以前の迷妄と笑い飛ばすのは易しい。しかし、今は目に見えない形でres publicaという「みんなのもの」を私的に横領しているものがいかに多いか、考えるべきであろう。

投稿者 Vapor Trail : 12:26 AM

February 09, 2004

オックスフォード

 週末に熱を出し、寝ていた。風邪で寝込んでいたときに、プルタルコスの『英雄列伝』を読破したのは小林秀雄だったか。小林自身がそのことをエッセイに書いている。それに倣おうとしたのだが、同時に、結膜炎にもなり、余り目を使うことができず、新しい本も読めなかった。それで熱を出す前に読んだばかりの本を、もう一度パラパラとめくっていた。
 その本は、小川百合『英国オックスフォードで学ということ』(講談社、2004年)。奨学金を得て、オックスフォードのニュー・カレッジに一年間、準客員研究員(Visiting Research Associate)の資格で所属し、学んだ女性画家による、体験を基にした良質のエッセーである。著者は、なぜ絵を描くのか、絵とは何か、という画家にとって根本的な、そしてさらに画家のみならずすべての人にとっても根本的な問いである「人間とは何か」という究極的な問いを抱えて、オックスフォードで暮らし始める。直接的な目的は、図書館を描くこと。しかし、上のような問いを抱えている著者は、美術はもちろん、音楽、文学、さらには哲学に至るまで様々な講義を貪るように聴く。そこで出会う魅力的な人々(教師や学生だけではない)、知識を伝達するのではなく学問の方法を学生に伝えようとする大学教育(ただし、知識は学生が自分で獲得していることが前提となっていることを銘記すべき)、一見がんじがらめの、しかし柔軟に適用される規則、そして何よりも落ち着いた静けさの中に流れるゆったりとした時間。こういったものが、著者の絵画や映画の知識が織り交ぜられながら、述べられている。
 副題の「今もなお豊かに時が積もる街」に名乗りを上げることのできる街が日本にはどれくらいあるのだろうか。それが実は「民度」の尺度になりはしないか。

投稿者 Vapor Trail : 10:25 PM

February 03, 2004

トロイ戦争の英雄たち

 クィントゥス(松田治訳)『トロイア戦記』(講談社学術文庫、2000年)を読了。
 過酷な運命、凄惨な死、それらを即物的に描写する絵巻物の中、英雄たちは全力で生きている。時には神々にまで反抗して。

投稿者 Vapor Trail : 12:02 AM

January 09, 2004

白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』:その2

 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』(新潮文庫、1999年)を読了。
 「大人の文章」と題されたわずか3ページの随想で、英文学者の福原麟太郎の文章について述べた一文が、そのままこの本にも当てはまるように思う。

・・・そこに書いてあることは全部忘れて、その余韻だけがいつまでも読者の心に残るというのは、考えてみれば大したことなのだ。これを大したことではないという人は、目前の思想とか文体にとらわれて、文章の醍醐味を知らぬ人といえよう。
 さらりと書かれているが、この文に込められている火薬の量は膨大である。巷に溢れている、片仮名を多用し、さらにはカギカッコや傍点などの強調をこれでもかとばかりに多用する文は、破壊し尽くされるであろう。そういった文章が説得しようとしている意見はほとんどが思いつきなのだから。
 しかし、思想や文体といったものが残る文章というのもまたあるはずであろう。そのような文章を書く思想家は出てくるのだろうか。

投稿者 Vapor Trail : 10:31 PM

January 07, 2004

白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』

 年末年始の休みからようやく復帰した。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』(新潮文庫、1999年)を疲れを感じたときに読む。日本の美を語りつつ「現代」への批判的まなざしを失わない、批評の教科書のような、それでいて肩をいからせていない文章が、こちらには心地よい。
 白洲が批判している「現代」はもちろん、今から見ればずいぶんと昔である。ざっと20年は前だろうか。それでも共感するところが多いのはなぜか。日本の世相は変わったようで変わらない、ということなのか。それとも個人的な理由によるのか。
 どうもどちらでもないような気がする。だがまだ考えがまとまらない。

投稿者 Vapor Trail : 10:03 PM

December 19, 2003

『ヒルベルトの挑戦』

 ジェレミー・J・グレイ(好田順治・小野木明恵訳)『ヒルベルトの挑戦——世紀を超えた23の問題』(青土社、2003年)を読んでいる。文系人間の私は数学は苦手だったのだが、案外好きであった。言わば、憧れの君みたいなものか、ときどき「会いたくなる」。だからこうして数学の書をひも解くことがある。とはいえ、数学を学ぶような書ではなくて、数学の歴史や数学者の生涯を扱ったものを読むに過ぎない。
 所々に出てくる数式は必ず追うようにする。たとえ分からなくとも、ある程度は考える。だがやはり多くの場合分からない。それでも構わないと思っている。やはり憧れの君である。
 実はこの本である数式を追っていたところ、誤植を発見した。自分の「数学度」がアップしたようで嬉しかった。

投稿者 Vapor Trail : 11:30 PM

December 18, 2003

ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』

 ウンベルト・エーコ(和田忠彦訳)『永遠のファシズム』(岩波書店、1998年)を読了。訳者の解説によれば、エーコが「モラル」について論ずるのは珍しいことらしい。だから、普段のエーコの著作と同じく、軽く楽しむのが求められている、というところもありそうだ。
 だがなかなかどうして、この本は言わば力が入っているように感じられる。もちろん、ところどころでニヤリとさせてくれる。だが真剣である。遊びに満ちた真剣さ、これは極めて良質の議論である。
 「新聞について」と題されたエッセイの最後の文句、「もっと世界をよく見てほしい、鏡を眺めることは控えてほしい」(p. 114)という言葉は、イタリアのマスコミと政界に向けられたものであるが、日本のそれらにも全く当てはまるものであろう。一般紙においてさえ、スポーツ記事が一面に載るような、はなはだしい内向き。これを克服しないで「国際化」を叫ぶのはほとんど漫画である。

投稿者 Vapor Trail : 11:32 PM

December 13, 2003

理論

 最近(と言っても2、3週間前だが)、書評で見たジョナサン・カラー(荒木映子・富山太佳夫訳)『文学理論』(岩波書店、2003年)を読み始める。「理論とは何か?」と題する第1章では、フーコーとデリダを実例として「理論」について説明している。自然と考えられているものが、実は歴史と文化の産物であることを暴く言説で、多くの分野にとって論ずべき対象の分析に有効な武器となりうるもの、といったところが要点であろうか。そこに自己言及的、という要素が加わる。それゆえそれは自己増殖する。現代思想の書物が氾濫するはずである。
 本書もその一つではあろうが、しかし「理論はマスターなどできるものではない」と言い切るところは、大変正直でよろしい。

投稿者 Vapor Trail : 10:21 PM

November 30, 2003

『恵みの時』

 稲垣良典『恵みの時』を読了。著者はトマス・アクィナスを中心としたスコラ哲学の碩学。「単に観想するよりも観想のみのりを他者に伝えること contemplata aliis tradere の方がより大いなることである」というトマス『神学大全』(IIaIIae, q. 188, a. 6)の言葉に従って書かれたものである。「限りなき飢え」の中の

正義への飢えを、ただ正義の観点からのみ満たそうとすると、私たちは容易に怒りの感情にとりつかれ、ついには憎しみのとりこになってしまう。正義への飢えを、人間にふさわしい仕方で満たすためには、正義を含む全き善への飢えとしての会いに目を向けなければならないのである。

という言葉が、このところの世界情勢を照らし出す、大いなる光のように感じられた。
 ここ数日、眠りに就くまでを静かに満たしてくれる書であった。

cf. 稲垣良典『恵みの時』(創文社、1988年)

投稿者 Vapor Trail : 06:52 PM

October 28, 2003

西洋古典

 中務哲郎『饗宴のはじまり——西洋古典の世界から』(岩波書店、2003年)を購入、読み始める。エッセー集である。
 一読してすぐに気づく、この博識、この心の余裕。一言で言えば、豊かさがここにある。教養がここにある。
 こういう著者を育てた学問——ヨーロッパの古典、ギリシアやラテンの語学・文学の研究——は「無用」と言われるらしい。そしてその声は日増しに増え続けているのであろうか。
 だがそのような人々に充ち満ちている国こそ無用と言われているのではないか、アメリカの片棒を担ぐしか能がないために。

投稿者 Vapor Trail : 11:02 PM

October 27, 2003

学問

 阿部謹也『学問と「世間」』(岩波新書、2001年)を読了。
 新書というのはそもそも文庫よりも鮮度の落ちるのが早いものとして出版されたが、ここのところの雑誌的書物の隆盛とともに新書もその内容が先端ばかりを追いかけるのが増えた。この本で語られている大学改革の話はすでに決着済みである。また学問の生活からの、筆者の言葉を使えば「国民からの」遊離という話題も、何度となく言われてきたことであろう。
 フンボルトの大学の理念は教養中心であるが、それは若者のものではない(cf. p. 34)。これは重要な視点であろう。社会の中でしかるべき地位を占める人びとのもつ教養こそ、その国の在りようを決めるからである。生涯教育という言葉にまとわりつく「老後の余技」のようなニュアンスを払拭し、学問のプロの下で学ぶ人々を増やすこと。これが大事なのではないか。

投稿者 Vapor Trail : 10:01 PM

October 08, 2003

政治哲学の一書

 ジョルジョ・アガンベン(高桑和巳訳)『ホモ・サケル——主権権力と剥き出しの生』(以文社、2003年)を購入し、「序」を読む。まだ全部を読んではいないので的確な判断は出来ないのだが、アリストテレスの『政治学』を基盤に、フーコーを批判的に継承しつつ、論を展開しようとしているようである。ハナ・アーレント、カール・シュミット、レオ・シュトラウスらへの言及もあり、読むのに骨が折れそうだが、しかし興味深そうな書である。
 折しも日本は「政治の季節」のようである。言葉遣いは大仰だが、何のことはない、単に衆議院の解散と総選挙が近いというだけのことだが、政策論争どころか、権力闘争や有権者の投票行動を「分析」した政治現象が紙面を飾るのに、耳をそばだてつつも背を向ける必要があろう。

 現象はもちろん「分析」するほどのものではない。現れているのだから。その背後にあるものを理解してこそ、現象もまた理解される。そのために必要なのは分析ではなくて、解釈である。

投稿者 Vapor Trail : 11:07 PM

October 04, 2003

ニーチェ

 須藤訓任『ニーチェ——〈永劫回帰〉という迷宮』(講談社選書メチエ、1999年)を読了。すでに何人かの人々から称賛されている本書をようやく読むことができた。評判に違わぬ、解釈の深さと論述の精妙さにおいて、勧められる一冊である。
 生の意味という問いに対する答えとして「永劫回帰」という迷宮(「耳」はその象徴である)を解釈する。永劫回帰は虚構であり、存在しないはずの、しかし言挙げすることによって在らしめられるかのような、外部である。その虚構に誠実に対処することは、厳粛でもあるがパロディーでもある。
 この奇妙な事態を笑い飛ばす精神の強さ、それをわれわれはニーチェに学ぶべきなのだろう。

投稿者 Vapor Trail : 11:14 PM

October 03, 2003

入門書

 小泉義之『レヴィナス——何のために生きるのか』(NHK出版、2003年)を読了。副題に示されている問いに答えるべく本書は三章からなっている。第一章で「自分のために生きる」考えの行き詰まりが指摘され、第二章で自分のために生きるとは「他者のために生きる」ことであると答えられる。それでも死んでいくことへの答えとして第三章で「来るべき他者のために」生きて死ぬという次元が開示される。
 よい入門書とはまず第一に面白いこと、そして第二に、かつ、最も重要なのは論じられている事柄をより深く知りたいという欲求を読者に引き起こすことである。本書は、少なくとも私自身には、どちらも満たしているものとして映じている。

投稿者 Vapor Trail : 10:24 PM

September 29, 2003

練習

 アラン『定義集』より「練習(EXERCICE)」の定義の引用。

リアルな行動に向かって自分を準備することを目的とする行動。

 いつものように簡潔で美しい言葉である。
 行動が持つ、人を陶酔させる力は練習にもある。練習そのものに酔い、練習がリアルな行動のためだということを人はしばしば忘れるのではないか。そのことが善いことか悪いことかはにわかには判断できない。しかし人は練習が「リアルな行動に向かって準備することを目的とする行動」であることを知るべきである。さもなければ、いつまでもリアルな行動はなされないから。

 このようにアランの言葉は人を促す倫理的な力を持っている。

投稿者 Vapor Trail : 10:49 PM

September 28, 2003

定義

 「それは定義の問題に過ぎない」と言われているとき、定義は重要ではないものと思われている。なぜならば、人が勝手に操作可能な概念であると見なされているからである。
 本当の定義はそのようなものではない。アラン(神谷幹夫訳)『定義集』(岩波文庫、2003年)を読んで、そう感じる。もちろん、だからといって、すべての人がある語を定義するのに全く同一の文言でする、というわけではない。表現は多様でありうる。だが、その表現の中に個人の恣意ではどうしようもない、手に負えないものがあるはずである、もしそれが真正の定義であるならば。
 個と普遍の幸福な結びつき。それが定義である、と言えるかもしれない。

 ちなみにアランの『定義集』はみすず書房から森有正訳が既に出ている。森訳はより硬質な文体で、アランにふさわしいように思われる。つまりその思索の具体性と倫理性とにふさわしい。だが残念ながら、森の翻訳はアランの記した語のすべてには及ばなかった。

投稿者 Vapor Trail : 11:40 PM

September 19, 2003

一神教

 宮本久雄・大貫隆編『一神教文明からの問いかけ——東大駒場連続講義』(講談社、2003年)を読む。現代の様々な戦乱・争乱が一神教である三つの宗教に由来すると思われていることをふまえた、時宜を得た出版と言える。
 副題にあるようにいわゆるリレー講義であるため、玉石混交なのはしかたがない。一神教は自らの信仰を絶対視し他者の抑圧へと向かいやすい、といった論調は正しいものではなかろう。多神教世界に生きていても独善的になる危険はいくらでもあるからである。
 もちろん、学ぶところも多かったし、共感するところもあった。それは本書のタイトルが示すように、「問いかけ」に真摯に応えようとする著者たちの態度によるところが大きい。そしてそういった応答はまた別の問いを生み、こうして人は不断の対話に誘われることとなる。事実、他者理解とはそのようなものであろう。
 ただ、デカルトのいわゆる暫定道徳にあたるものを示して欲しかった、とも思う。

投稿者 Vapor Trail : 11:27 PM

September 16, 2003

繰り返し読むこと

 連休中にようやくといった感じで、『森有正エッセー集2』(ちくま学芸文庫、1999年)を読み終わる。
 いつものように考えさせられることがいろいろとあったのだが、特に印象に残っているのは「日記」のアランについて述べた言葉で、「アランはアリストテレスを18回も読んだ」という記述である。アリストテレスをこれだけ繰り返し読んだアランも偉いが、それに感動する森も偉い。この驚き(感動とは驚きだ)は、書を読まない者が抱いたものではなくて、読書家が抱いたものだ。プロがプロに驚く。この驚きは貴い。これに対して素人が持つ驚きも当然ある。それは素朴でほほ笑ましい。しかし尺度にはならない。
 残念ながら、素人が玄人に対して持つ驚きをテレビなどでは盛んに流す。だから次から次へと驚きの対象が求められる。新しいものがもてはやされるのはそのためだ。そのような態度とアリストテレスを18回も読む態度とは何とかけ離れていることだろう。

投稿者 Vapor Trail : 09:50 PM