July 24, 2004

持参する本

 山本義隆『磁力と重力の発見1──古代・中世』(みすず書房、2003年)を読了。
 このタイミングで読み終わるのはちょっと具合が悪い。というのも明日から海外に出かけるのに続きの2冊を持っていくべきか悩ましいからである。読み終わりそうな量だが、しかしそれだけの時間と体力があるかどうか。
 そもそもこういう時には日本語のいい文章を読みたい。購入したままになっていた保坂和志の『カンバセイション・ピース』(新潮社、2003年)を持っていこう。そう決めていた。その他に資料やら何やらがある。ちょっと重くないか。
 荷物を詰めたら幸い少なかったので、全部持っていくことにする。

投稿者 Vapor Trail : 09:27 PM

July 23, 2004

リンク

 スパムにやられた。そのためしばらくコメントを受け付けないようにする。
 このサイトは人気サイトではないから、スパムの「意義」はそれほどないようにも思う。それとも単なる愉快犯ということなのだろうか。
 インターネットはおそらくは誕生のときから情報を繋げることが目的であったのだろう。スパムもその延長上にあると言えなくはないかもしれない。とするならば、なくなることはありそうもない。
 リンクは人間が意図して行っている。もしサーバーやホストコンピュータなどが人間の手を介さずに、リンクを行ったとしたらどうなるのだろうか。その時にはコンピュータはあまりありがたいものではなくなりそうである。

投稿者 Vapor Trail : 10:37 PM

July 08, 2004

世間虚仮

 佐藤正英『聖徳太子の仏法』(講談社現代新書、2004年)を読了。
 以下はこの書からの引用である。

世俗世界における現生は、かけがえのない時間・空間から成っている。しかし、世俗世界における現生は、現生だけで終結しているのではない。前生から現生へ、現生から後生へと繋がっている時間のなかに在り、いくつもの他界に接している空間のうちに在る世界である。現存は、基底において幽在時間・幽在空間に支えられている。現存の意味は、世俗世界における現生では時と処によってめまぐるしく変転して定まらない。世俗世界における現生で捉えられるかぎりでの事物や事象の在りようは、時と処によって変転するところの、虚にして仮なる在りようであって、真にして実なる在りようではない。世俗世界における現生は、事物や事象の実なる在りようを捉え、みずから体現することを希求して、思惟を重ね、修行を積む時間・空間である。他者との隔絶を埋めるべく、煩悩の汚泥にまみれ、辛苦する世界なのである。

投稿者 Vapor Trail : 10:48 PM

 佐藤正英『聖徳太子の仏法』(講談社現代新書、2004年)を読み始める。 
 かの有名な憲法十七条の第一条「一に曰く、和を以ちて貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ」の「和」は、親族共同体や村落共同体における「和」ではないという指摘に、蒙を開かれる。前者は情念を共有する構成員たちが融合する在りようであるが、後者は絶対知を修めようとする官人共同体における「和』であるという。その共同体の誰もが絶対知を修めていないがゆえに謙虚であり、それでいて絶対知からの言わば距離によって各人が位置づけられるがゆえに上下という秩序がある。この秩序を保つことこそ、第一条の主旨だという。
 このような「和」こそ求められるべきなのではないだろうか。そして一般に理解されている情的紐帯としての「和」は無意味とは言わないまでも、それが通用する範囲を縮小すべきではないだろうか。

投稿者 Vapor Trail : 12:35 AM