April 26, 2004

過去と可能性

 森有正「アリアンヌへの手紙」から引用。

過去に支えられた可能性、それこそが本物の可能性なのだとわたくしは思う。なぜならその場合には、前に飛び出すための跳躍台になりうるものが一杯に詰まっているからである。全くの中立状態にある可能性は、無限に適応できるように見えるけれども、実際には真の適応性が欠けているのであり、何の役にも立たない。過去に戻るということはこの自由な適応性を組織することなのである。

 「過去に支えられた可能性」とは中世スコラの学者たちがハビトゥス(habitus)と呼んだものであろう。これに対して「全くの中立状態にある可能性」はポテンティア(potentia)である。では、「過去に戻る」とは、そしてそれが自由な適応性を組織することであるとは、いったい何を意味するのだろう。
 私にはそれは「汝自身を知れ」という命令に応えた人の態度であると思われる。

cf. 二宮正之編『森有正エッセー集成4』(ちくま学芸文庫、1999年)、p. 435。

投稿者 Vapor Trail : 10:55 PM

April 16, 2004

直接さを離れて

 森有正「アリアンヌへの手紙」から引用。

実際に行動する場合に賢明な態度は事物の直接の様相に惑わされないことである。直接というのはわたくしたちの感能と感情とに直接につながっているという意味だ。叡智とは何事においてもある程度の《時の間隔》をおくことであり、それだけが、私たちを捉えている問題の重要性、つまり重要であるか重要でないかの度合を《客観的に》判断することを可能にするのである。

cf. 二宮正之編『森有正エッセー集成4』(ちくま学芸文庫、1999年)、p. 308。

投稿者 Vapor Trail : 10:24 PM

April 13, 2004

思考停止に陥らないために

 よく使われている言葉はしばしば思考停止を引き起こす。よく耳にするがゆえに、分かったつもりになってしまっているからだ。現代社会におけるマスコミの巨大化と通信手段の発達は、その傾向を助長する。だが思考停止に陥らないためには、その趨勢に抵抗する必要がある。だからこそ問わなければならない、「それはいったいどのような意味なのか」と。
 もちろん、興奮によって生じる痙攣が行動であると思っている人々の間で、一旦立ち止まり、思考へと促すそのような問いを発するのは、勇気がいる。王様が裸であることが指摘されなかったのはそのためだ。
 問うことを止めなかったソクラテスは、勇敢な人であった。

投稿者 Vapor Trail : 10:27 PM