六本木ヒルズの自動回転扉に男の子が挟まれ死亡したという痛ましい事件に関する報道で違和感を覚えるものがある。「誤作動を少なくするために、センサーの死角を広くした」という表現の中にある「誤作動」という言葉である。
コンピュータを使っている人は誰でも、操作ミスによってそれまで書いてきた文章を一瞬にして失う、という経験をしたことがあるだろう。コピー先とコピー元とを間違えるといったファイル操作ミスはより被害が大きい。こういったとき、過ちは人間にあるのであって、コンピュータにはない。コンピュータは使用者の命令に「忠実に」従ったまでであって、使用者の意図に反して文章を消すわけではないのだ。コンピュータには過ちはない。
自動回転扉のセンサーも同じだろう。もしセンサーに「誤作動」が可能ならば、男の子はセンサーの死角に入っていたにもかかわらず、センサーが誤作動しために助かった、ということになるはずである。ではなぜ「誤作動」などという言葉が使われるのか。
コンピュータの場合を考えれば明白である。保存するつもりだったのに、削除してしまった。コンピュータは馬鹿だ。これは意図とは別のことが生じてしまった、ということである。だからセンサーの「誤作動」とは、制作者や使用者の意図とは別に、あるいは逆に作動した、つまりは自動回転扉が止まった、ということを意味している。彼らの意図とは、できる限り多くの人間を効率的にビル内に入れたり、ビルから出したりする、ということである。
センサーは「危険」を感知し、扉は止まった。だがその時、おそらくは健康な大人だったのであろう、センサーを作動させた人は挟まれずに済んだ。今回の事故(ないし事件)以前に、「誤作動した」と言われている事態はおそらくこうだった。
センサーに誤りはない。過ちが使用者や制作者にあるのである。
森有正「文化の根というものについて」より引用。
新しいものはすべて古いものの中から発芽し、それを包みきれなくなった古いものが脱落して行くという形で発展してゆく・・・そういう古いものが使用に耐えなくなるまで維持されて、新しいものを妨げるとともに深く養っている・・・これはフランス文明について述べた言葉である。森のこの観察がただしいかどうかは分からない。しかし、「新しもの好き」が大手を振っている社会ではこういうことがなかなか見られないのは事実であろう。
cf. 二宮正之編『森有正エッセー集成4』ちくま学芸文庫、1999年、p. 179.
自分が成長したことが分かる、これは大きな喜びである。子どもでもこの喜びを知っている。いや、子どもこそこの喜びを知っているというべきだ。
大人たちはむしろその喜びに与る機会は少ない。「できなかったことができるようになる」というこの成長を味わうには、自分にはできないことがあるという自覚が必要だろう。だが、その自覚を持つことは難しい。その自覚を持てるよう望むことはさらに難しい。できて当たり前と思いたいから。
それを避けるには、次々と新しいものに挑戦するか、あるいは自分のしてきたことをより深めるか、どちらかであろう。
『幸福論』などで有名なカール・ヒルティのすすめる読書法は次の三つからなる。
1:たくさん読むこと
2:つまらないものを読まないこと
3:正しく読むこと
このうち2は、新聞、雑誌、つまらない小説の類を読まない、3は具体的には、原本を原語で繰り返し読むこと、である。
この読書法をやり通すことは極めて困難である。しかし、その価値はある。そう思う人にヒルティは言う、「とにかく始めよ」と。
一週間ぶりだが、アランのプロポ「三つの対神徳」からの引用。
人間嫌いは、希望のみか信頼までも殺してしまう。人間たちが無知で、癒しがたく怠惰だとすれば、私は何を試みることができようか。その男が愚鈍で軽薄であると信じ込んでしまえば、彼を教育することすらわたしにできようか。だから、人間にかんする一種の希望と一種の信頼が存在するのだ。そして、その真の名は愛徳である。
cf. アラン(山崎庸一郎訳)『プロポI』(みすず書房、2000年)、p. 219.
またイエスの言葉は、マタイ22章39節。
昨日に引き続いて、アランのプロポ「三つの対神徳」からの引用。
信念は希望がなければ先にはすすめない。登山家が遠くからエヴェレストの最初の斜面をながめたとき、すべては障害だった。通路を発見したのは、すすむことによってである。これゆえに、まえもって遠くから、これこれのものが意欲にとって障害になるだろうと決めてかかるのは、意欲することにはならない。道はふさがれていると思いながら試みるのは、試みることにはならない。だから、発明家や改革者は、まず山の周囲をまわり、さまざまな峡谷を通ってできるかぎり遠くまで前進し、最後には通路を発見するのである。なぜなら、われわれにとって味方でも敵でもない、無関心な多種多様な事物のなかには、かならず足がかりになる好機や場所が見つかるからだ。そして、語の普通の意味において、ことをまえにしてのこの徳は、まさに希望なのである。
cf. アラン(山崎庸一郎訳)『プロポI』(みすず書房、2000年)、p.p. 218-219.
アランのプロポ「三つの対神徳」からの引用。
自分自身を信頼しないなら、ことを企てるとは明らかに狂気の沙汰である。自分に意欲する力があると信じることなく、自分自身に固く誓うことなく意欲するのは、意欲することではない。
めいめいがまずもって自分の意欲を疑うなら、ただそれだけで、戦争に戦争がつづくことになろう。だから、第一の徳は信念である。
cf. アラン(山崎庸一郎訳)『プロポI』(みすず書房、2000年)、p. 218.
J.H.ニューマン『大学の理念』からの引用。
"Good" indeed means one thing, and "useful" means another; but I lay it down as a principle, which will save us a great deal of anxiety, that, though the useful is not always good, the good is always useful. Good is not only good, but reproductive of good; this is one of its attributes; nothing is excellent, beautiful, perfect, desirable for its own sake, but it overflows, and spreads the likeness of itself all around it. Good is prolific; it is not only good to the eye, but to the taste; it not only attracts us, but it communicates itself; it excites first our admiration and love, then our desire and our gratitude, and that, in proportion to its intenseness and fulness in particular instances. A great good will impart great good.
ニューマンの『大学の理念』第七講話の第4節からの引用。なお、ここに述べられている善が善を生み出すという観念は新プラトン主義的なものである。
山崎努『俳優のノート──凄烈な役作りの記録』(文春文庫、2003年)を読了。これは俳優の山崎努が「リア王」公演の準備、稽古、公演を通じての日記である。
俳優がいかにして役を作っていくのか、事柄自体としても興味深いが、しかし山崎の思索が骨太であることがこの書の大きな魅力になっていると思う。骨太とは根本から考えているがゆえに説得的で、確信したことを断固として主張するがゆえに力強い、という意味である。少し引用しよう。
戯曲全体を隅々まで理解すること。一行たりとも分からない個所があってはならない。全体が分からなければ、自分の役がどのような役割を課せられているかも分からないはずなのだ。自分の役以外の役を深く知らなくてはならない。全体を理解せず、自分の役だけを考えるということは、木を見て森を見ないということだ。俳優は木を凝視すればよい、自己中心的な方がよいのだ、それを演出家が使いこなしていくのだから、という意見もありそうだが、自分はそうは思わない。それでは俳優は木偶扱いされていることになるではないか。俳優は馬鹿ではいけない。俳優は演出家の道具になってはならない。今、演出家主導の芝居が持てはやされているようだが、これはとても悲しく淋しいことだ。我々俳優は森全体を見、そして木を見なければならない。自立しなければならない。(pp. 111-112.)
何故あんな空疎な演技になってしまったのか。それは、演技を作り上げる材料はあくまで日常にある、ということを忘れてしまったからだと思う。・・・大切なものは自分の日常にある。・・・目の前にいる人、今起きている事に興味を持つことだ。面白いことがたくさんあるじゃないか。日常に背を向けてはいけない。(pp. 374-375.)