February 26, 2004

2万通の手紙

 19世紀の英国を代表する知性、J.H.ニューマンは生涯に手紙を2万通以上書いたという。メールはおろか、電話もなかった時代であるから現代よりも多いのは当然であるとしても、しかし驚くべき数である。
 生涯のメールの数が2万通を超える人はいくらでもいるだろう(一日10通のメールを打てば、2000日──あしかけ6年──で2万だ)。しかしそのほとんどは集めても価値が出るとは思えない、たとえそれが「知識人」であっても。

投稿者 Vapor Trail : 11:54 PM

February 25, 2004

古代アテネの民主政

 橋場弦『丘のうえの民主政──古代アテネの実験』(東京大学出版会、1997年)を読了。すでに専門書を上梓している著者が、一般向けに書いた書。それゆえ、叙述は平明で読みやすく、読者の興味がとぎれないようにアテネの民主政の歴史を様々な人物について語り継ぎつつ描くという手法は成功していると言えよう。全6章のうち5章がそのような語りに充てられ、第3章「参加と責任のシステム」のみ原理的な話である。
 「ペリクレスの死後、アテネの民主政は衆愚政となり混迷、ペロポネソス戦争に敗北、そして後にアレクサンドロスにより独立を失う」という歴史の教科書によくある筋書きが必ずしも正しくないことを明らかにしている。民主政のシステムはむしろ前4世紀の方が進化した。責任のシステムが、民主政の二度の転覆といった事態を経て、より整備されたからであるという。
 資格審査をパスすれば誰でも(とはいえ三十歳以上のアテネ市民権を持った男性のみ)公職に就く(役人になる)が、しかし任期中はもちろん、一年の任期を終えた後はいっそう厳格にその責任を問われる。金銭上の不正がなかったかどうか問われ、それ以外の執務についても責任が問われた。より要職にある人物には弾劾裁判にかけられる可能性があった。
 「公務員倫理など信じない」過酷とも映るアテネの民主政は権力を徹底的に分散・細分化し、しかも公職にある者の責任を厳格に問うものであったのだ。

投稿者 Vapor Trail : 10:27 PM

February 23, 2004

精神の発見

 アラン「実物教育」からの引用。

ソクラテスは、周囲から探し出して、マント持ちをしていた奴隷の子どもを幾何学の弟子に選んだ。俊秀のアルキビアデスはなにも口を挿めなかったが、おそらく一日中、口には出せないつぎのような想いを反芻したに違いない。たぶん教僕のほうがしっかりしているに違いない。教僕なら、平等性の秘密は主人になるような者たちにしか教えないと心に誓っているはずだ、と。

 『メノン』の中でソクラテスは奴隷の子どもを相手に、ただ問うことによってのみ、幾何学の知識を教える。しかしそれは子ども自身の精神の発見にもなっている。精神、そこにおいてこそ人は平等である。
 だが、アルキビアデス、優秀でありながら、ソクラテスの傍らにいながら、あなたは何をしていたのか? 自らが精神であることをあなたもソクラテスに教わらなかったのか。
 おそらくアランは上のような問いを抱えていたはずだ。それに対する答えが引用の中にある。主人であることの意識。

cf. アラン(山崎庸一郎訳)『プロポ2』(みすず書房、2003年)、p. 246.

投稿者 Vapor Trail : 11:07 PM

February 21, 2004

諸行無常

 諸行無常。すべては過ぎ去る。これはもちろんある種の哀感を帯びた言葉ではある。だがだからこそ現にある憂うつな状態から救われることもある。過去も未来も存在しない。存在するのは現在だけだ。これはストア派の賢者の教えである。彼らはそう考えることによって自己の心を保つことが出来た。
 それは凡人には難しい。そうかもしれない。しかしどんな人にも、今まさにしなければならないことがあるはずだ。それを行え。そうすれば、気分が少しは晴れる。正確に言えば、自分のことばかり思い悩まなくて済む。つまり癒される。
 時間が有り余っている人に必要なのは、それゆえ、強靱な精神力である。しかしそのようなものを持ち合わせる者はどれほどいるのだろうか。

投稿者 Vapor Trail : 11:06 PM

February 20, 2004

惰性との闘い

惰性に身を委ねる・・・この世では凡てが惰性で動いている・・・従って、凡てが意志に対立する。そうとすれば、我々が生きる為に果たすべき本質的な部分は闘いにある。それは絶えず更新していくことであり、瞬間毎に創造していくことである。
 二宮正之篇『森有正エッセー集3』ちくま学芸文庫、1999年、p. 398、からの引用。彼の1965年3月18日の日記の一部である。  これはアランの言う、自分の自分に対する闘いと同じことだと考えてよさそうである。とするならば、人は自己のうちに惰性で動かされる部分を持っているということになりはしないか。惰性に流されることは非難の対象となり、その非難は流された人全体に向けられる。それゆえ、流される自己は確かに自己である。しかしそれははたしてどのような意味で自己なのだろうか。
投稿者 Vapor Trail : 10:56 PM

February 18, 2004

健康な知性

 健康はそれ自体として望ましい。もちろん、健康であることから、例えば、仕事が出来るとか明るい気分であるとか、様々な益が手に入るであろう。しかし健康はそういった益のために求められるのではない。健康を回復するために服用する薬とは明らかに違う。薬それ自体を貴ぶものはいないが、健康それ自体は明らかに貴い。
 さて、もし知性にも健康ということが比喩的に語られるとしたらどうだろう。健康的な知性、あるいは健全な精神、は明らかにそれ自体として望ましい。ではそれはどのようにして人が獲得することの出来るものなのだろうか。先天的なものと後天的なものとの混合によって得られるのだろうか、ちょうど健康が、生まれつきの健やかさと、早寝早起きや暴飲暴食をしないなどの生き方との双方に由来するように。
 かつて知性の健康、つまり教養を得るためには古典を学ぶことが必須と考えられていた。しかし今は、古典なるものは役に立たないとの理由で殆ど無視されている。ネイティブの人とちょっとしたおしゃべりが出来る方が、シェイクスピアを原典で読んだことがあるというよりも価値が高いと思われている。道具としての知性こそ求められているのだ。
 それが何をもたらすか、社会はまだよくわかっていないと言うべきなのか、それとももうわかっていると言うべきなのか。こんなことをJ. H. ニューマンを読んで考えた。

投稿者 Vapor Trail : 11:37 PM

February 17, 2004

アランの二つの言葉

 アランの言葉を二つ掲げよう。

何もしない人は何も愛さない。
嫌なことのない職業とは、自分がたずさわっていない職業だけである。

 上の引用は1908年のプロポ、下の引用は1935年のプロポである。
 この二つの言葉は矛盾している? とんでもない。通底するものが見て取れる、いやむしろ同じことを違った言い方で述べているのだ。愛と気分とは違うのだから。
 様々な困難に打ち勝つこと、それこそ行動するということであり、その積み重ねにより人は自分自身への愛と対象への愛とを自覚する。しかし困難を避けることばかり夢想していては、今現に在るものを見ず、別のものを彼方に眺めるだけで満足してしまう。
 そして困難とは対象のうちに在るように見えて、実は自分自身のうちにある、自分自身であるともそうでないとも言えそうなものから由来する。汝自身を知れ。

投稿者 Vapor Trail : 11:51 PM

February 15, 2004

変貌

二カ月前に書いたものを見ると、もういつのまにかそれを超えてしまっている自分が意識される。それはどういうことなのか、説明するのはむつかしいし、恐らくそれは出来ないことであろう。しかしその変化と成長とは、一つの否定することの出来ない事実としてそこにあり、私は二カ月前に書いたものをすでに批判出来るようになっている自分を一つの重みを感ずるように感ずるのである。そして私は、一つのことが判り、理解することが出来るのは、決して知的面だけの問題ではなく、もっと経験全体の変容、その成熟に外ならず、それを確定するものとして知的判断が表れてくるのだということを知るのである。そしてそれ以外には、判るということは金輪際ありえない、と感ずるのである。私はそれを「変貌」と名付けたいと思う。
 二宮正之編『森有正エッセー集4』(ちくま学芸文庫、1999年)に所収の「変貌」からの引用(pp. 23-24)。
 言うまでもなく、このような変貌を遂げるには、不断の、連続した、精進の積み重ねが必要である。それが森の言う「時が成長している」事態である。
投稿者 Vapor Trail : 11:16 PM

February 13, 2004

神聖ローマ帝国

 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書、2003年)を読む。面白く、短時間で読めた。それは、語り口が巧妙ということもあろうし、高校の時に習った世界史の知識がよみがえり、かつそのころ不思議だったことが氷解したということもあろう。しかし何よりも、千年以上にわたるヨーロッパの歴史(の一断面)を、この不思議な「神聖」「ローマ」「帝国」をめぐる人物列伝の形式で述べたことによると思われる。それが歴史の専門家には余り受けない、ということは、歴史のアマチュア(愛好家)ですらない私のような一読者にとってはどうでもよいことだ。専門家の著者は少しそのあたりを気にしているが。
 皇帝や王、様々な諸侯という土地貴族によって繰り広げられる土地の簒奪がそのまま国家の版図を決めているというのは、いかにres publica(「公共のもの」)という「ローマ」の理念(たとえそれがローマ帝国のものでなかったとしても)からかけ離れているかを示している。政略結婚によって、領土が広がるなどはその最たるものだろう。それを近代以前の迷妄と笑い飛ばすのは易しい。しかし、今は目に見えない形でres publicaという「みんなのもの」を私的に横領しているものがいかに多いか、考えるべきであろう。

投稿者 Vapor Trail : 12:26 AM

February 11, 2004

意志的行為?

 行動を規定するもの、あるいは導くもの。それは実はとてもつまらないものでありうる。「ふらふらと」「つい」「何となく」、これらの言葉を口にしかなった者があろうか。
 ラスコーリニコフは殺人の妄想から救われたと思った直後に、金貸しの婆さんのところに翌日はリザ・ヴェーダがいないことを往来で耳にした。その後は人形、操り人形のように犯行に及ぶ。これは果たして人間の行為であろうか。
 犯行後のラスコーリニコフは人形ではない。犯行現場からいかにして立ち去るべきか、凶器をどうするか、奪った金は? こういった問題をラスコーリニコフはテキパキとは言えないし、いわんや適切にとは言えないにしても、「人間的に」行う。彼は自分が何をしているか意識しており、意識していることを意識している。意識の意識とは決して病的なことではない。よくあることだ。たとえ「理性的」ではないにしても。
 なぜラスコーリニコフは操り人形となってしまったのか。悪魔、と昔の人々なら考えたであろう。だが、そういうものを否定するのがならいとなっている現代では、どのように語りうるのだろうか。

投稿者 Vapor Trail : 09:11 PM

February 09, 2004

オックスフォード

 週末に熱を出し、寝ていた。風邪で寝込んでいたときに、プルタルコスの『英雄列伝』を読破したのは小林秀雄だったか。小林自身がそのことをエッセイに書いている。それに倣おうとしたのだが、同時に、結膜炎にもなり、余り目を使うことができず、新しい本も読めなかった。それで熱を出す前に読んだばかりの本を、もう一度パラパラとめくっていた。
 その本は、小川百合『英国オックスフォードで学ということ』(講談社、2004年)。奨学金を得て、オックスフォードのニュー・カレッジに一年間、準客員研究員(Visiting Research Associate)の資格で所属し、学んだ女性画家による、体験を基にした良質のエッセーである。著者は、なぜ絵を描くのか、絵とは何か、という画家にとって根本的な、そしてさらに画家のみならずすべての人にとっても根本的な問いである「人間とは何か」という究極的な問いを抱えて、オックスフォードで暮らし始める。直接的な目的は、図書館を描くこと。しかし、上のような問いを抱えている著者は、美術はもちろん、音楽、文学、さらには哲学に至るまで様々な講義を貪るように聴く。そこで出会う魅力的な人々(教師や学生だけではない)、知識を伝達するのではなく学問の方法を学生に伝えようとする大学教育(ただし、知識は学生が自分で獲得していることが前提となっていることを銘記すべき)、一見がんじがらめの、しかし柔軟に適用される規則、そして何よりも落ち着いた静けさの中に流れるゆったりとした時間。こういったものが、著者の絵画や映画の知識が織り交ぜられながら、述べられている。
 副題の「今もなお豊かに時が積もる街」に名乗りを上げることのできる街が日本にはどれくらいあるのだろうか。それが実は「民度」の尺度になりはしないか。

投稿者 Vapor Trail : 10:25 PM

February 05, 2004

アランのプロポ「友情」

 「君の木を君の穴蔵のなかで腐らせてはいけない」とアランはこのプロポで語る。「穴蔵」とは閉ざした心であり、「木」とは喜びを内蔵している心である。火に木をくべると、太陽からいただいた、それまで内に隠していた熱が木から出てくるように、内に隠された喜びは笑うことによって外に現れ、本当の喜びとなる。幸福だから笑うのではなくて、笑うから幸福なのだ、とさえアランは言う。
 これはおそらくデカルトの考えによるものだろうが、より注目すべきはこのメカニズムが「友情」と題されているプロポのなかで語られていることである。もちろん、人が一人でいるのはよくない。「満足した人でも、もし一人でいれば、自分が満足していることをすぐに忘れてしまう」。だからこその友であろう。互いに内に隠し持っている喜びを外へと引き出すための。だが一人でいることを余儀なくされている場合もありうる。そのようなとき、笑うことを試みよとアランは言う。そうすれば喜びが湧いてくる。とすると、私の木の中の熱を引き出した火は私自身だということになる。私が私の友なのだ。
 友に対して友であることと、自分に対して友であること。そのどちらかがかけても真の喜びはないのだろう。

投稿者 Vapor Trail : 11:27 PM

February 03, 2004

トロイ戦争の英雄たち

 クィントゥス(松田治訳)『トロイア戦記』(講談社学術文庫、2000年)を読了。
 過酷な運命、凄惨な死、それらを即物的に描写する絵巻物の中、英雄たちは全力で生きている。時には神々にまで反抗して。

投稿者 Vapor Trail : 12:02 AM