January 28, 2004

起源を探すには

 アランのプロポ「歌われた叫び」を読む。そこからの引用。

諸制度の起源を探さなければならないのは、われわれを取り囲むものうちに、本性それ自体のうちにであって、古文書の中にではない。

 新たな制度を作るときにもこの言葉は有効であろう。現実に即して思考すること。ところが新しいものを作るとき、人は往々にして興奮状態にあり、自らの本性を忘却する。

投稿者 Vapor Trail : 10:37 PM

January 26, 2004

「食堂のにおい」

 アランのプロポ「食堂のにおい」を読む。
 学校のであれ、修道院のであれ、食堂には共通のにおいがあるとアランは言う。それを知らない者は善良な市民であろう。しかしそれを知っている者は、「秩序や規則といったものを好ま」ない。彼らがいつも「法や規則に対し、礼儀に対し、道徳に対し・・・いきり立っているのが見られる」。
 考慮すべきはアランの分類の是非ではない。分類の基準となっている「食堂のにおい」である。食堂のにおいを知っている者が「法や規則に反抗」するのは、それが法や規則の象徴だからだろう。食堂では秩序が最も重んじられる。座るべき位置が決まっている。目上の人が来るまでは食べてはいけない。そういったところであろうか。
 嗅覚という感覚の情動への近さ、あるいは密接さをもこのプロポは明らかにしている。食堂のにおいを知っている者は規則や礼儀に対していきり立つ。この怒りが場合によっては正義へと引っ張っていくことも大いにある、「綱の端を引っ張る疑い深い犬のように」。

投稿者 Vapor Trail : 10:12 PM

January 24, 2004

『森有正エッセー集3』より

 『森有正エッセー集3』(ちくま学芸文庫、1999年)を読了。今日は疲れているので、引用を二つだけ。どちらも「日記」からである。

パリという、根柢から人の意志に基づいてできている大都会の真っ只中にあって、僕の同国人はすっかり方向を失い、為すところないようでさえあった。勿論、それは人間としてという意味である。彼らは、この都市の住民を相手に行動し、競争し、交渉し、何ものかを組織する、それだけの力がない。この町の四つ角に打ち棄てられて、自分らの甘ったれた夢に閉じこもって生き続けるだけである。それは、彼らが辛酸きわまりない現実との関係において自らを測ることを知らず、逆に、何事につけても、主観的なお目出度い自己評価のうちにだらしなく逃避しているからに他ならない(p. 371)。

 真の教養は、理解と表現という二つの行為を含むものであるから、逆方向に働き、補いあうこの二行為の結びつきを、常に大切に保持しなければならない。(p. 508)

 二つ目の引用の原文には「理解」と「表現」とに傍点あり。

投稿者 Vapor Trail : 10:43 PM

January 23, 2004

ハビトゥス

 学問と単なる情報、あるいは碩学とディレッタントとの違いはどこにあるのか。アリストテレスの言葉を使えば、アイティア(原因)を知っているかどうかがその両者を分ける。ある事柄が別の事柄の原因であるとは、それらが結びついており、いわば立体的に構造化されていることを意味するだろう。とするならば、ある情報に反応することは心の表層において起こっていることであって、そこには深みがない。学的認識をヘクシスやハビトゥスとして規定した古代・中世の人々の叡知を思え。
 数多くの情報に接し、それに素早く反応すること。そのような訓練をすることは害悪ではあるまいか。学的認識というハビトゥスの獲得のためには習慣というハビトゥスによるしかない、つまり時間が必要だから。

投稿者 Vapor Trail : 11:30 PM

January 21, 2004

近代とは?

 森有正「黄昏のノートルダム」より引用。

自然科学、自然の征服の思想の上に立つ近代機械文明、それを端的に表す近代戦、それは、自然への讃歎から出発したギリシア文明とたしかに異質のものだ。それは旧い文明を吸収消化することなく、それを破壊する。古い遺跡は、その文明の生命の持続を後に来る文明にゆずり渡し、自らは平和に自然に還るけれども、近代文明で破壊された旧い文化は、生命の持続を喪失し、死滅し、その不気味な死骸だけをのこす。

 古代哲学と中世哲学の間には連続性が認められるが、中世哲学と近代哲学との間には亀裂がある、とは夙に識者の指摘するところである。この森有正の言葉は、そのことを遺跡に即して述べたものだと言える。
 では現代はどうなのだろう。近代と連続しているのか、それとも近代を破壊するのか。世界の様相は後者を示しているように思われるが。

 cf. 『森有正エッセー集3』(ちくま学芸文庫、1999年)、p. 268.

投稿者 Vapor Trail : 09:53 PM

January 20, 2004

En lisant Alain

 今年になってから、アランのプロポを少しずつ読んでいる。理想は一日に一つなのだが、なかなか時間がとれない。それでも、疲れて帰って来ても、なるべくプレイヤード版の『プロポI』を開くようにしている。
 アランの翻訳はずいぶん読んだ。それも何度も読んだものがたくさんある。だから改めてフランス語で読む必要があるのか。それほどフランス語が得意なわけでもないのに。そう言われてしまうかもしれない。
 しかしアランの言葉を引きつつ、こう答えよう、「困難こそ喜びなのだ」と。
千ページを軽く超えるプレイヤード版のアラン著作集は全4巻。はたしてアランの"En lisant Dicekns" はいつ読めるのだろう?

投稿者 Vapor Trail : 10:43 PM

January 15, 2004

大学における研究と教育

大学における研究の特質とは何か。それは・・・教育の問題、すなわち、大学が学生と教師の共同体であるという性質につながる問題である。学生を教えることは、直接的には研究者にとって大きな負担である。・・・しかしまた真の研究者は、学生の素朴な質問の中に、単なる未熟さや幼稚さを見るのではなく、自分が没頭している高度な研究、深遠な問題設定に対する、根源的な——すなわち言葉の本来の意味でのラディカルな——問い直しを見いだすのである。・・・真の研究者は、学生から問われるだけでなく常に自ら問い直している人であるに違いない。
 これは建築家で、大学教授であった方の本からの引用である。  根源から問うことの必要性は、時代が混迷の度を増している現在、ますます高まっているのに、混迷を増しているがゆえに、根源から問うことの有益性がますます意識されなくなっているようだ。それは根源から問うことには時間がかかるからである。だが、速成のものは早く滅びる。それゆえ結果を性急に求めることは、そのための投資や努力を、結局、無駄に終わらせるだけであろう。

cf. 香山壽夫『建築家の仕事とはどういうものか』(王国社、1999年)、pp. 82-3.

投稿者 Vapor Trail : 11:28 PM

January 14, 2004

建築

 冬の冷気に包まれた建物はその直線をくっきりと示す。それは自然に対して、自己を主張する精神の証だ。よく知られたように、自然のうちには曲線しかないのだから。だがだからこそ、精神は自然と調和しうる。美しい建物が周囲の環境と調和するように。そのためには精神は精神でなければならない。原理的なものからよく考えられて建てられた建物こそ美しいのは、そのゆえである。
 私は建築に詳しくはなく、いわんや建築家でもない。しかし、ある建築家の書を読むことによって、このような思いを抱いた。おそらくこれは様々に変奏しうる旋律でありうるだろう、もし自らよく考えようとするならば。

投稿者 Vapor Trail : 11:45 PM

January 13, 2004

引用の現すもの

 書店を覗いたら、トルストイの翻訳で、彼が作成した様々な書物からの引用集の文庫本があった。書名などは忘れたが、パラパラと見た感じでは、毎日、相当数の引用が書きつけられていた。引用だけからなる書にどれほどの価値があるのだろうか。トルストイだからこそ、文庫本として翻訳・出版される、ということなのだろう。そう考える人もいるかもしれない。しかし、引用には引用した人の感性や思想、なかんずく力量が如実に現れる。引用を自分の小説に多用する大江健三郎が、小林秀雄の『本居宣長』の引用文が見事だと言っていたことからもそのことがわかる。
 私の見るところ、最高の引用はトマス・アクィナスの手になる『黄金の鎖』と呼ばれる書である。これはトマスが古の教父たちの著作から自由自在に引用し、それらを適切に組み合わせ、編集し、一冊の福音書の註解書としたものである。この書に現れるトマスの神学者としての力量は計り知れない。博学に基づく引用とそれらを美しく織り上げる能力、どちらかが欠けても、このような書が成立しないのは明らかである。さらに明らかなのは、そのどちらかを身につけることすら凡人には難しいということである。
 『黄金の鎖』は、書を読み、古今東西の優れた思想に学びながら、自らの思索を重ねようとする者にとって、北極星のようなものだ。到達することはできない。しかし目指すことはできる。そして何よりもそのような者にとっての道標となっている。

投稿者 Vapor Trail : 11:21 PM

January 12, 2004

仕事に基づいて

 森有正「滞日雑感」より引用。

パリで、私は日本、ことに東京が全く変貌したように人からも聞いていた。しかし帰って来て、決してそうではないことを知った。ただ問題は、新憲法の新しい精神があらゆる活動の基礎であるべき、古い言い方を用いれば、国是というべきものになっていない、ということをも同時に感ぜしめられたことであった。
 私のいうのは、平和主義とか民主主義とかいうことを一つのイデオロギーとして立てて、これを人々の頭にたたき込むという野蛮なことではない。自分の日々の勤労に営々として従事し、その仕事に喜びと誇りとを感ずるということ自体が平和と民主主義との実体であり、それを脅かす恐れのある一切のことに対して抵抗する心構えが平和を守るということであって、それが政治の上に反映されたものが民主的な政治である。

 cf. 二宮正之編『森有正エッセー集成3』(ちくま学芸文庫、1999年)、p. 223。なお、引用文中、太字になっている部分は、原書では傍点(森による強調)。

投稿者 Vapor Trail : 10:44 PM

January 11, 2004

自己を定義する

 森有正のエッセイ「ルオーについて」を読む。
 このエッセイを導いているのは、アランの「自己に対する自己の対立」、あるいは「自己を定義する」という言葉だ。森はこのことをわれわれ日本人が学ぶべき、フランス文明の質のよさを現すものとして、書いている。森が言うように、「自己を定義する」というのは、不断の労働を通じて自己のうちに秩序を作ることであり、自己に対する闘いに他ならない。
 だが、と人は言うかもしれない。森は書いていないが、アランの言葉に「詩人は詩を作り、怠け者は眠る」という言葉がある。とすると、自己を定義するためには不断の労働や自己との闘いを必要としないということになりはしないか。あるいはアランは矛盾したことを言っているのか。
 おそらくそうではない。怠け者は何もしないことを選択することによって、自己を怠け者として作り上げてしまったのだ。ただしこの場合の秩序とは無関係である。それゆえこれは「自己が定義される」と言うべきかもしれない。何によってか。外的条件や、欲望、怠惰、などによってである。それらに抵抗しないで流されることによってである。
 定義されてしまった人は、自由を失った人である。対処することしかできないのだから。うまく対処したとき、その人は自分の力を感じるだろう。だがそれは自由という力ではない。なぜなら、自由とは自己を定義する人のみが持つものだから。

cf. 二宮正之編『森有正エッセー集成3』(ちくま学芸文庫、1999年)

投稿者 Vapor Trail : 11:10 PM

January 09, 2004

白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』:その2

 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』(新潮文庫、1999年)を読了。
 「大人の文章」と題されたわずか3ページの随想で、英文学者の福原麟太郎の文章について述べた一文が、そのままこの本にも当てはまるように思う。

・・・そこに書いてあることは全部忘れて、その余韻だけがいつまでも読者の心に残るというのは、考えてみれば大したことなのだ。これを大したことではないという人は、目前の思想とか文体にとらわれて、文章の醍醐味を知らぬ人といえよう。
 さらりと書かれているが、この文に込められている火薬の量は膨大である。巷に溢れている、片仮名を多用し、さらにはカギカッコや傍点などの強調をこれでもかとばかりに多用する文は、破壊し尽くされるであろう。そういった文章が説得しようとしている意見はほとんどが思いつきなのだから。
 しかし、思想や文体といったものが残る文章というのもまたあるはずであろう。そのような文章を書く思想家は出てくるのだろうか。

投稿者 Vapor Trail : 10:31 PM

January 07, 2004

白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』

 年末年始の休みからようやく復帰した。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』(新潮文庫、1999年)を疲れを感じたときに読む。日本の美を語りつつ「現代」への批判的まなざしを失わない、批評の教科書のような、それでいて肩をいからせていない文章が、こちらには心地よい。
 白洲が批判している「現代」はもちろん、今から見ればずいぶんと昔である。ざっと20年は前だろうか。それでも共感するところが多いのはなぜか。日本の世相は変わったようで変わらない、ということなのか。それとも個人的な理由によるのか。
 どうもどちらでもないような気がする。だがまだ考えがまとまらない。

投稿者 Vapor Trail : 10:03 PM