October 29, 2003

教養

 ドイツ語では教養は形成というような意味もある語でBildungといい、ある種の生真面目さを感じさせるのに対して、ギリシア語ではpaideiaで、これはpais(子ども)とかpaizo(遊ぶ)という言葉と同根である。子どもにとっては遊ぶことが学ぶことでもある。他方、大人にとっては遊びとは仕事から解放されたときの気晴らしという程度の意味しかないのではないか。しかしはたして遊びとは、つまりは教養とはそれだけのものなのだろうか。
 教養についての議論が数多くなされているようだ。それはそれで結構なことなのだが、ギリシア語の教養という語に感じられる遊びの要素がないようにも思われる。それだけ、教養の必要性が真剣に語られているということなのだろうか。いったい誰が遊びの必要性を主張できるだろうか、この経済不況の、絶叫することが説得することだと思っている人間が首相をしているこの社会で。
 だが、結論として、子どもの世界から学ぶものがありそうだ、ということには断じてならない。それは今の日本の子どもの世界とは大人の世界の鏡でしかないからである。

投稿者 Vapor Trail : 10:46 PM

October 28, 2003

西洋古典

 中務哲郎『饗宴のはじまり——西洋古典の世界から』(岩波書店、2003年)を購入、読み始める。エッセー集である。
 一読してすぐに気づく、この博識、この心の余裕。一言で言えば、豊かさがここにある。教養がここにある。
 こういう著者を育てた学問——ヨーロッパの古典、ギリシアやラテンの語学・文学の研究——は「無用」と言われるらしい。そしてその声は日増しに増え続けているのであろうか。
 だがそのような人々に充ち満ちている国こそ無用と言われているのではないか、アメリカの片棒を担ぐしか能がないために。

投稿者 Vapor Trail : 11:02 PM

October 27, 2003

学問

 阿部謹也『学問と「世間」』(岩波新書、2001年)を読了。
 新書というのはそもそも文庫よりも鮮度の落ちるのが早いものとして出版されたが、ここのところの雑誌的書物の隆盛とともに新書もその内容が先端ばかりを追いかけるのが増えた。この本で語られている大学改革の話はすでに決着済みである。また学問の生活からの、筆者の言葉を使えば「国民からの」遊離という話題も、何度となく言われてきたことであろう。
 フンボルトの大学の理念は教養中心であるが、それは若者のものではない(cf. p. 34)。これは重要な視点であろう。社会の中でしかるべき地位を占める人びとのもつ教養こそ、その国の在りようを決めるからである。生涯教育という言葉にまとわりつく「老後の余技」のようなニュアンスを払拭し、学問のプロの下で学ぶ人々を増やすこと。これが大事なのではないか。

投稿者 Vapor Trail : 10:01 PM

October 11, 2003

Neusteon

 アランのプロポ「意欲と行動」より。

人間は欲するまえに行動するということは、子ども時代を見れば自明の理である。人間は世界に投じられるとすぐ、世界のなかを泳ぐ。しかも気づいたときにはつねにそこに投じられているのであり、いくらもがいてもそこから身をもぎ離すことはできない。・・・
 ことは実行に移そうではないか。最良の着想といえども計画倒れになり得るからである。計画を操舵することはできない。ところが、ひとはそれができると信じている。まだ後悔していないのに修正を加える。はじめるまえに終わらせようとする。なんども揶揄されてきた管理精神とは、けっして船を進水させることのないきわめて慎重な精神である。きわめて見事な船なのに。

 Neusteon——泳がなければならない。

 cf. アラン(山崎庸一郎訳)『プロポ2』(みすず書房、2003年)

投稿者 Vapor Trail : 10:59 PM

October 08, 2003

政治哲学の一書

 ジョルジョ・アガンベン(高桑和巳訳)『ホモ・サケル——主権権力と剥き出しの生』(以文社、2003年)を購入し、「序」を読む。まだ全部を読んではいないので的確な判断は出来ないのだが、アリストテレスの『政治学』を基盤に、フーコーを批判的に継承しつつ、論を展開しようとしているようである。ハナ・アーレント、カール・シュミット、レオ・シュトラウスらへの言及もあり、読むのに骨が折れそうだが、しかし興味深そうな書である。
 折しも日本は「政治の季節」のようである。言葉遣いは大仰だが、何のことはない、単に衆議院の解散と総選挙が近いというだけのことだが、政策論争どころか、権力闘争や有権者の投票行動を「分析」した政治現象が紙面を飾るのに、耳をそばだてつつも背を向ける必要があろう。

 現象はもちろん「分析」するほどのものではない。現れているのだから。その背後にあるものを理解してこそ、現象もまた理解される。そのために必要なのは分析ではなくて、解釈である。

投稿者 Vapor Trail : 11:07 PM

October 07, 2003

平和

 アラン『定義集』より「平和(PAIX)」の定義の引用。

これはどんな敵も知らない、だれの不幸も喜ばない人間の状態である。平和が想定しているのは、無関心の状態のみならず、すべてのことは人間同士の間で理性と忍耐とによって解決すべきであって、ピークは長続きしないという積極的な信仰である。この信仰は国家同士の間にも同じように言える。

 この定義に照らせば、宮沢賢治は確かに平和の人であった。
 「ピークは長続きしないという積極的な信仰」という言葉に躓くかもしれない。しかしこの言葉は前の「理性と忍耐」と関連させて理解すべきであろう。つまり、平和とは熱狂から一番遠くにあるべきものなのだ。そして熱狂とは「理性と忍耐」とが失われた状態のことであろう。

 アラン(神谷幹夫訳)『定義集』(岩波文庫、2003年)は、味わうべき書である。

投稿者 Vapor Trail : 10:30 PM

October 06, 2003

誤字

 この間、テレビを見ていたら、「急がしい」という文字が現れ、呆れた。近ごろはパソコンでテロップを作成しているのだろうが、考えられない間違いである。誤変換に決まっている。そう思って、自分のパソコンでisogashiiと打ってみたら、「忙しい」の他には、平仮名と片仮名の変換候補しか現れなかった。ということはテレビの誤りは、相当古いソフトによるのか。まさか「忙しい」と正しく変換されたのに、「急がしい」と改悪したのではあるまい。
 手書きではありえないような間違いが氾濫するのは、ローマ字変換のせいなのだろうか。それともローマ字ではなくて変換が問題なのだろうか。いずれにしろ、コンピュータで日本語を「打つ」ことから来る現象であることは否めない。いったいなぜだろう。

 思考のスピードとほぼ同じ早さで画面に平仮名が現れる時、その画面を見ている、つまりはキーを打っている本人の頭の中には正しい漢字が浮かんでおり、変換キーを押してしまえば、思考は直ちに次に進み、指がそれに続く。ところが、常に正しく漢字変換が行われるわけではもちろんなく、それゆえ頭のなかで浮かんでいる正しい漢字とは別の誤った漢字が画面に現れても、それに気づかない。こうして誤字が手書きより多く発生すると思われる。
 しかしこれだけでは誤字の多さを説明できない。自分の指が打ちだした文章を読み返せば、誤字に気づくことは可能だからだ。にもかかわらず、誤字が多いということは読み返すときにも問題が多いということになろう。おそらく、たとえ黙読であってもわれわれは「声」を感じながら、読み返している。それゆえ、たとえ誤字があっても、その誤字は「音」としては正しいために、読み返しているときには、つまりは「音」により注意が向いている段階では、「字」の誤りが気づかれにくいのではないだろうか。
 パソコンを用いて文章を書くときに誤字が多いのは日本語の特性による、そう思われるのである。

投稿者 Vapor Trail : 10:59 PM

October 05, 2003

驚き

 人が驚くのは今まで知らなかったことに対してである。これは自明だ。そしてこの驚きの感情(それは確かに感情だ)は、どうやら快を伴っているらしい。新しいものをひたすら追い求めることがあるのがその証拠だ。
 しかしこれは精神を堕落させる、とデカルトは言う。精神が驚くべきものは他にある。新しいがささいな事柄に驚くのは、驚くべきものへの驚きを摩滅させてしまう、というのだ。
 もしデカルトが今を生きていたならば、批判はより鋭さを増すであろう。新しいものを求めることによって動いているのが現代だから。しかし新しいと喧伝される事柄はそれほど新しくはないのではないか。類型的なものが多いのではないか。
 デカルトの『情念論』を読み返す必要がありそうである。

投稿者 Vapor Trail : 09:59 PM

October 04, 2003

ニーチェ

 須藤訓任『ニーチェ——〈永劫回帰〉という迷宮』(講談社選書メチエ、1999年)を読了。すでに何人かの人々から称賛されている本書をようやく読むことができた。評判に違わぬ、解釈の深さと論述の精妙さにおいて、勧められる一冊である。
 生の意味という問いに対する答えとして「永劫回帰」という迷宮(「耳」はその象徴である)を解釈する。永劫回帰は虚構であり、存在しないはずの、しかし言挙げすることによって在らしめられるかのような、外部である。その虚構に誠実に対処することは、厳粛でもあるがパロディーでもある。
 この奇妙な事態を笑い飛ばす精神の強さ、それをわれわれはニーチェに学ぶべきなのだろう。

投稿者 Vapor Trail : 11:14 PM

October 03, 2003

入門書

 小泉義之『レヴィナス——何のために生きるのか』(NHK出版、2003年)を読了。副題に示されている問いに答えるべく本書は三章からなっている。第一章で「自分のために生きる」考えの行き詰まりが指摘され、第二章で自分のために生きるとは「他者のために生きる」ことであると答えられる。それでも死んでいくことへの答えとして第三章で「来るべき他者のために」生きて死ぬという次元が開示される。
 よい入門書とはまず第一に面白いこと、そして第二に、かつ、最も重要なのは論じられている事柄をより深く知りたいという欲求を読者に引き起こすことである。本書は、少なくとも私自身には、どちらも満たしているものとして映じている。

投稿者 Vapor Trail : 10:24 PM

October 01, 2003

他人の判定

 あいつらは悪人に決まっている。幸い、私はその誰とも話したことがないが。そう述べるアニュトスにソクラテスは言う。どうやらあなたは占いが出来るらしい。
 よく知らない人について人は軽々しく、しかし断固として判定する。地位や職業、そういったものによって。話したことがなくとも、いや会ったことすらなくとも。なぜこういうことが出来るのか。考えてみれば不思議である。しかし私たちはマスコミに取り上げられる人々をよく知っている気になっている。だから判定できるのかもしれない。
 こういった判定は、あるいはそれほど害がないかもしれない。しかしよく知る人に対して、つまりは私たちの近しい人たちに対してなされる判定はどうだろう。しばしばそれも表層的なものかもしれない。それを打破するためには会話が必要だ。そうも考えられる。
 しかしながら、人が人を知るには対話が必要であるのが真実であるとしても、それは必要条件に過ぎない。ソクラテスのように、人の魂を見分けることが出来るほどの対話術を持っている人のみが、かろうじて人を知ることができるのではないか。

 cf. プラトン『メノン』

投稿者 Vapor Trail : 11:05 PM