September 29, 2003

練習

 アラン『定義集』より「練習(EXERCICE)」の定義の引用。

リアルな行動に向かって自分を準備することを目的とする行動。

 いつものように簡潔で美しい言葉である。
 行動が持つ、人を陶酔させる力は練習にもある。練習そのものに酔い、練習がリアルな行動のためだということを人はしばしば忘れるのではないか。そのことが善いことか悪いことかはにわかには判断できない。しかし人は練習が「リアルな行動に向かって準備することを目的とする行動」であることを知るべきである。さもなければ、いつまでもリアルな行動はなされないから。

 このようにアランの言葉は人を促す倫理的な力を持っている。

投稿者 Vapor Trail : 10:49 PM

September 28, 2003

定義

 「それは定義の問題に過ぎない」と言われているとき、定義は重要ではないものと思われている。なぜならば、人が勝手に操作可能な概念であると見なされているからである。
 本当の定義はそのようなものではない。アラン(神谷幹夫訳)『定義集』(岩波文庫、2003年)を読んで、そう感じる。もちろん、だからといって、すべての人がある語を定義するのに全く同一の文言でする、というわけではない。表現は多様でありうる。だが、その表現の中に個人の恣意ではどうしようもない、手に負えないものがあるはずである、もしそれが真正の定義であるならば。
 個と普遍の幸福な結びつき。それが定義である、と言えるかもしれない。

 ちなみにアランの『定義集』はみすず書房から森有正訳が既に出ている。森訳はより硬質な文体で、アランにふさわしいように思われる。つまりその思索の具体性と倫理性とにふさわしい。だが残念ながら、森の翻訳はアランの記した語のすべてには及ばなかった。

投稿者 Vapor Trail : 11:40 PM

September 26, 2003

不満

 不満な人間はなぜ自分自身を傷つけるようなことをしてしまうのか。他人を、ではない。いや正確には他人を傷つけることが確かにあるが、あるいは大いにあるが、それも実は自分を破壊しようとする欲求が原因となっているように思われる。どうせ死ぬなら、他のやつも殺してやれ。そう一瞬でも思った人は多いのではないか。そこまでいかなくとも、自己に対する不当な評価(他人によるものであれ、自分自身によるものであれ)によって悪をなしてしまう、ということはよくあるだろう。
 ソクラテスは何も持たなかった。知恵も名誉も財産も持たなかった。彼は不満だったろうか。そうかもしれない。彼は知恵を持たなかったのだから。しかしその不満は彼が幸福であることにいささかも影響を及ぼさなかった。

投稿者 Vapor Trail : 12:27 AM

September 21, 2003

比喩

 "Ein gutes Gleichnis erfrischt den Verstand."
 「よい比喩は頭の血の巡りをよくする」というウィトゲンシュタインのこの言葉は鋭い。イエスもプラトンも比喩に巧みであった。彼らがいまだに新鮮であるのはその卓抜な比喩能力のおかげでもあろう。
 時代も場所も異なる21世紀の日本で、政治家たちはしばしば喩えを用いて語る。だがそれを聞く(あるいは目にする)私たちの精神を活発にはしない。なぜか。もちろん、よい比喩ではないから。では比喩のよさとは何によるのか。
 比喩とは何か。これについては修辞学において様々な議論がなされているであろう。だがここでは簡単に次のように言っておこう。比喩とはある事柄(A)を伝えるために、別の事柄(B)を用いて語ることだ、と。このときBはAよりも具体的で、しばしば強いイメージ喚起力をもつのが普通である。よい比喩とはしたがって、まずはAとBとの関係によって決まる。Bが適切な仕方でAを伝えるならば、それはよい比喩の必要条件を満たす。
 しかしながら、たとえその関係が適切なものであったとしても、語り手が伝えようとする事柄Aそのものが価値の低いものであったならば、決してわれわれの精神が目覚めることはない。むしろその時、比喩はわれわれを沈滞させる。なぜならばそのような比喩を語りうる機転の利く人が、しょせんはつまらぬことをしか欲していないことを露にするからである。

投稿者 Vapor Trail : 10:42 PM

September 19, 2003

一神教

 宮本久雄・大貫隆編『一神教文明からの問いかけ——東大駒場連続講義』(講談社、2003年)を読む。現代の様々な戦乱・争乱が一神教である三つの宗教に由来すると思われていることをふまえた、時宜を得た出版と言える。
 副題にあるようにいわゆるリレー講義であるため、玉石混交なのはしかたがない。一神教は自らの信仰を絶対視し他者の抑圧へと向かいやすい、といった論調は正しいものではなかろう。多神教世界に生きていても独善的になる危険はいくらでもあるからである。
 もちろん、学ぶところも多かったし、共感するところもあった。それは本書のタイトルが示すように、「問いかけ」に真摯に応えようとする著者たちの態度によるところが大きい。そしてそういった応答はまた別の問いを生み、こうして人は不断の対話に誘われることとなる。事実、他者理解とはそのようなものであろう。
 ただ、デカルトのいわゆる暫定道徳にあたるものを示して欲しかった、とも思う。

投稿者 Vapor Trail : 11:27 PM

September 16, 2003

繰り返し読むこと

 連休中にようやくといった感じで、『森有正エッセー集2』(ちくま学芸文庫、1999年)を読み終わる。
 いつものように考えさせられることがいろいろとあったのだが、特に印象に残っているのは「日記」のアランについて述べた言葉で、「アランはアリストテレスを18回も読んだ」という記述である。アリストテレスをこれだけ繰り返し読んだアランも偉いが、それに感動する森も偉い。この驚き(感動とは驚きだ)は、書を読まない者が抱いたものではなくて、読書家が抱いたものだ。プロがプロに驚く。この驚きは貴い。これに対して素人が持つ驚きも当然ある。それは素朴でほほ笑ましい。しかし尺度にはならない。
 残念ながら、素人が玄人に対して持つ驚きをテレビなどでは盛んに流す。だから次から次へと驚きの対象が求められる。新しいものがもてはやされるのはそのためだ。そのような態度とアリストテレスを18回も読む態度とは何とかけ離れていることだろう。

投稿者 Vapor Trail : 09:50 PM

September 12, 2003

仕事

 仕事という言葉がいつの間にかプロ野球の解説などで用いられるようになった。この場合、仕事とは「よい結果」を意味しているようである。
 しかしそれとは違う仕事もある。それは成果を生み出すためになされている仕事である。野球で言えば、練習である。試合よりも練習の占める割合は大きいはずだ。少なく見積もって9割には達するだろう。達しないならば、一流ではないと断言できそうである。
 こちらの仕事は人様には見えない。見せる必要もない。だが、見えるもののみが存在しているものだと考える人々は多い。そしてその傾向をマスコミが助長する。それゆえそういった人々は結果にこだわる。結果しか見えないのだから。ところが本当の一流とはプロセスをも楽しむ人であろう。いや、プロセスをこそ、と言うべきだ。そして良い結果、つまり成果をも出す。
 結果がすべて、だからこそ結果にはこだわっていられない。これこそ仕事を持つ人のすべてが目指すべきものだ。

投稿者 Vapor Trail : 11:18 AM

September 11, 2003

憎しみ

 恐れるべきものは怒りではなくて憎しみである。怒りは突発的であるが、憎しみは持続するから。なぜ憎しみは持続するのか。おそらくは憎しみの方がより言語化可能だからではないか。怒りは個別的であるが、憎しみは普遍的である。個別的な怒りにでさえ、正当かどうかはともかく、理由がある。ならば憎しみはより理由をもって語られるであろう、それが正当であるかどうかはともかくとして。とすると、人間以外の動物には怒りはありえても憎しみはないということになるのだろうか。
 憎まれた場合、人はどのように反応するのか。まず、おびえ、恐れる。そしてその恐怖は怒りに変わり、さらに憎しみに変わるであろう。こうして生じた憎しみの連鎖を断ち切ることは極めて困難である。当事者双方に理由があるからである。
 人間は人間のみが持つ情念によって自らを滅ぼしてしまうのか。そうではないことを自らに証しすること、これがおそらくは今世紀の課題なのだ。

投稿者 Vapor Trail : 10:00 PM

September 10, 2003

続けること、始めること

 新しくこのサイトを始めるにあたって、アランによる行動の要諦を記しておきたい。曰く、一、続けること、二、始めること。
 逆ではない。続けることが先なのだ。人が何かを新しく始めるときでさえ、それはそれまでのその人の在りようによって特徴づけられているからである。人はすでに何かである。それを無視しては新たなものは生まれないのだ。
 しかしもちろん、新たなものを始めるとは出発である。出発するには身軽でなければならない。何かを後に置いていかなければならない。置いていくものとは過ぎ去っていくべきものである。ではそれが豊かな実りであったとしたら? だがそれこそ出発を遅らせる原因となりうる。そして出発を遅らせるとは出発しないことだ。
 今在るものを続けること。そしてそこから何か新しいものが胎動するとき、即座に出発する勇気を持つこと。これができる人は後悔しないだろう。

cf. アラン『プロポ2』みすず書房、2003年

投稿者 Vapor Trail : 11:31 AM